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平成17年6月分

■6/30     世話人会懇親会 
総勢23名の懇親会を一泊二日でエクシブ初島で催し夕刻帰寺する。
毎回懇親旅行にでも何でも一番に出席するご夫婦が来ない。如何したのかと電話したら一日間違えていたとの事、少し遠い方だったが迎えにバスで出かける事となった。無事合流して愉しいバス旅行は始まった。

袋井インターで降りて可睡斎というお寺を参詣する。皆さんお参りに行くかと思えば隣の「百合園」にみんな出かけてしまった。
可睡斎を後にして一路東名高速を東に向かう。途中のサービスエリアで朝皆さんで握ったオニギリをバスの中で頂く。「買って頂くオニギリと全然違うね」っと自画自賛で美味しく頂いた。バスの中では「北国の春」がかわいらしい声で流れてとても良い雰囲気で熱海まで続いた。

熱海初島行きの乗り場でお一人の方と合流、お船に乗って初島へ向かう。生憎、濃霧のため初島も何も見えない。ホテルに到着後、温泉入浴、懇親会と続きとても盛り上がった。

翌日は御殿場のアウトレット、清水の魚市場へ出かけて夕刻お寺へ帰る。北海道行きには25名が出席予定。段々と盛り上がってくる世話人会に心強く思う。明日から7月。今年も半年を過ぎてしまった。
■6/28     休養 
ともかく忙しくしていたので本日と言うより昨夜からゆっくり休んで午後よりお寺に出る。では何処に居たと言うと自室で早めに休んで気がつくまで寝ていた。

午後よりネットで求めたCDをボチボチと聞く。寝ながらうつらうつらと聞くとまた寝てしまった。他にも学生時代の歌謡曲集のCDも聞く。久しぶりに聞く曲は頭の中の隅っのゴミだらけの中の埋もれている思い出を蘇らせてくれた。コレは目が覚めてきてあれやこれやと思い出す。いい気分で音楽を聞く。

お昼過ぎ、大変お世話になっているお家のご夫婦がお越しになられ暫らく歓談をさせていただく。今秋にご子息の婚儀を控えお喜びのお話を伺った。暫らくしたら今度は、梅干をと持ってきた檀家さんとお茶を飲んで遊びのお話をする。今年の夏過ぎにお世話人会で北海道へ行く予定となっておりその後の、行くか行かないか分からない、その次ノの海外旅行のお話に妄想を入れて大いに盛り上がる。

夕刻、台所の改修工事をした大工さんが、その後を見に来られた。その姿は左足をギブスで巻き痛々しい姿であった。「如何した?」っと聞くと向う脛にパイプが刺さり10針縫う大怪我を負ったと言う。詳しく聞くとこの手術の時、血液検査で他にも悪い症状が出たと言う。
「死んだお袋さんが『無理するな!少し休めや』っと言っていると思ってチョッと9月に入ったら休もうと思う」と言う。「アホな事、言うな。体あっての自分だぞ」っと叱るが本人は「オレはくよくよしない。仕事が無いほど寂しい物はない。休むから心配せんでくれ」ッと言う。「所で住職、水道屋が住職と一杯飲みたいと言っているが何時になったら返事する」っと反対に約束を忘れている事を突きつけられた。
この大工も面倒見の良い男で飲み会を楽しみにしているらしい。約束はしなかったけど「病院へ行け」っときつく言ったら「実は紹介状を持っている」と言って紹介状をかばんの中から出して私に見せた。なんだか寂しそうであった。一杯飲み会に付き合うか?。
■6/27      
午前中、婦人部の世話人さん達がお越しになられて本坊厨房をきれいに清掃してくれた。台所の引き出しからまな板、湯飲みに灰皿、コップ、食器棚、10名近くいたのであっという間にきれいになった。引き出しの中の種々の品々もきれいに整理整頓して見違えるようになった。

その後、再度イタリア村にお寺のバスで出かける。いつものお店で皆とイタリア料理を頂く。イタリア人であろうバンドが生演奏でレストランの雰囲気を盛り上げる。しかし何でこの蒸し暑い最中にヨハン・シュトラウスの曲とは・・・参った。

一足先にレストランを出てブラリと2〜3歩歩いた所に友人夫婦が可愛い可愛い孫を乳母車に乗せていたところを鉢合わせした。人がどっと出ているこのイタリア村でバッタリとであった。ご心配事があったのだが一段落をして落ち着かれたのか、友人ご夫妻も笑顔が明るかった。お別れしてボチボチ出口に向かって歩いていたら「ゴンドラすぐ乗れます」の看板に私は飛び乗った。黒いゴンドラは狭い水路をプチャプチャとゆっくり進む。進む事100m弱、お一人サマ500円。さっき孫を抱いていた友人とお別れしたその場所が到着場所だったから。まぁ良いだろう、これでイタリアへ行かなくても行った様な気にもなれるというもの。

お寺に帰ると松井建設名古屋支店長さんが来られる。長いお付き合いになった20年のお付き合いとなった。色々相談に乗っていただいた。その後、疲れたのですぐに就床する
■6/26
   空ら梅雨
いつもの日曜日でありお参りや来客でバタバタとする。一昨日よりの強行行程が祟ったのか朝起きられなかった。丸山僧正からこれとこれのお参りをお願いしますと内線電話がかかり、ふらつく頭を抱えて寺務所へ出仕する。
少しすると体もシャンとしてきて元に戻ったがこの先、歳を取るともっと辛くなるのであろう。

今日の法事での出来事。 お勤めが終わってお茶を飲みながらお茶を運んできてくれたここのお家の娘さんを捕まえて、「何処へお嫁に行ったの?」なんて根ほり葉ほり聞いていたら「住職さん、私と妹と勘違いしていない?」っと顔をのぞき込まれた。なんと双子の娘さんだった事を初めて知る。長男さんに「お宅って3人兄弟なんだ」っと伺うと「ええ、僕と双子の妹なんです」「ええええ、双子? じゃ、私と同じなんだ」っと返事をすると、双子の娘さん達は「えええええぇぇぇぇ・・・」っと彼女らも驚天動地のような驚きを隠さなかった。

そりゃそうだろう、私と弟は全く顔も違えば性格も違う。「全然にていませんね」と娘が言う。「そうだね、でも私は弟に言ってある事がある」というと「何を?」っと困ったような顔をして私に尋ねた。
「お前も私も100歳まで長生きをしようじゃないか!って言ってあるんだ」というと「どうして?」っと私の質問に絡みついてきてくれた。

「金さん銀さんが亡くなった今、私たち100歳の双子の住職が誕生する事で世間の注目を浴び、二つのお寺をお参りする事で長寿間違いなし!、と世間でPRする。そうするとお寺も栄え、自分達爺さんも元気になり家族から大切にされる事間違いなし!どうだいっ」っと言うと法事に来ていた人達が大爆笑をした。

お茶が出て饅頭が出てお布施を頂いた。数珠袋にお布施を入れようとするとこの間、ある人から私の映った昨年の写真があった。娘に「どうだい、この写真良いだろう。若々しく映っているだろ?」って言ったら私の顔を再度まじまじと眺めて「住職、全然変らないよ」と言われ私はガックリ、みんなはまたまた大爆笑。「気に入っているんだけどな」っと言うと娘はイタズラっぽく笑っていた。

夕食、夏の風物詩 冷やしそうめんを頂き、早めに就床した。
■6/25     淡路八淨寺と日和佐薬王寺を参詣 
世話人会懇親旅行の最終訪問先の再確認と突然ではありましたが淡路島の八淨寺及び日和佐の薬王寺を訪問した。
世話人懇親旅行の途中で参詣を少しするために袋井インターを降りて油山寺、可睡斉、を訪れて施設等を見学する。とても立派なお寺であり学ぶところも多かった。毎月お参りに行くお参り大好き先生の事を思い出し油山寺のご住職に「緑区の○○先生をご存知ですか?」っと尋ねたら「先週も来たよ、十三仏と七福神と何だかんだでいっぱいご集印をして行ったよ」っと明るく返事をしてくれた。「そうそう、あのそばの○○寺の住職の主治医が若先生だよね」っとたいそう詳しい。
「毎月お参りに行くお寺の住職が来たよって、来たら伝えてね」っと言ってお別れをした。境内は広く三重塔のある所まで大変な距離であった。 このお寺以外にどこかないかと思い立ち富士の久遠寺を思い出してそこも下見をする。


帰路、少しキツイが出たついでに淡路の八浄寺と徳島の日和佐、薬王寺の塔を見に出かけた。とても遠いが時間がないので無理をして参詣をした。お寺から出て帰ってみたら往復1200kを走行していた。本当にくたびれたが月曜日に松井建設名古屋支店長さんが来られるのでそれに間に合わせたかった。
(こんごうぶろうかくゆぎとう)
金剛峰楼閣瑜祇塔
上の写真は徳島「薬王寺」の瑜祇塔

お盆や夏の祭礼等の都合でかなりの強行軍になり今でもクタクタです。歳にはかないません。
■6/23     楽しかったパーティー       
午後より第4管区海上保安友の会の理事会に出席する。名古屋商工会議所会頭の挨拶に始まり本部長の挨拶があり、会員の減少を食い止め会員数を増やして発展に資する為の色々な討議が為された。私は会員の中で在籍会員年度により色々な特典を付ける、例えば2年の継続会員であれば南極の氷で好きなジュースを船の上で飲む、3年継続であればまあまあの船、5年以上であれば大きな船とかと言う余り役には立たない意見を出した。また目の前にはイタリア村があり毎日大勢の人がお越しになっている。オープンデッキのレストランの前には巡視船みずほが目の前に繋留されているので、そこで会員申込書を置くとかのアイデアも出した。来年少しは会員数が増えてくれれば良いのだが。

理事会終了後、立食のパーティーとなりたくさんの楽しいお話で盛り上がった。何と言っても映画「海ざる」のお話をした。「潜水する人を保安庁では『海ざる』って呼ぶんですか?」「あの映画の中で、酔っぱらった海ざるが寿司屋の生け簀に入ってみんな潜るんですか?」なんて幼稚な質問をした。
「ああぁ、ええっっ・・そんな事しませんよ。」とか「潜水士を海ざるとは呼ばないよな」とか私の映画でのお話を快く聞いてお答えして貰った。

話しはガラリと変わるが愛知県警の職員数は12.000人。海上保安庁全職員も12.000程。この人数で全国の海域を24時間監視と不審船の発見に努めておられる。私の横でお話し頂いた方も沖縄方面で機関銃のメクラ撃ちやロケット砲撃に遭遇して帰られたご経験を持つ方であった。本部長が「人間にかかる重力の限界が6Gです。あの時、この人達は二日間飲まず食わずでこの6Gに耐えて不眠不休で停戦命令を下していたんです」とお話が続いた。

「しかし船は最後は沈みましたね」と言うと「あの程度では船は沈まない、自爆をしたんです。あの小さな漁船は通常はスクリューが一つ、所があの船はスクリューが4コも付いていて人の寝る所や、食事をする所も無かった筈です」っと今までの雰囲気がガラリと変わる話しとなった。
そう言えば前の本部長が私に「あの沖縄での事件以来、心に傷を負った保安庁の職員がたくさんいたが、それを伝えるメディアは無かった」っと自分たちの立場の辛さを私にこぼされた事を思い思い出した。

「住職、あの本部長は良い所の出なんだよ。俺たち見たいに、あそこ行け!で、来た連中とは違うんだよ」っと冗談ぽく私に言う。「そうですか、そんじゃ良い所の方だったんですね。じゃあ、海ざるじゃあ、無いんですね」っと言うと大笑いであった。

聞くと見るとでは大違いの大変な業務、若い時の脱線した時のお話、訓練で死にそうになったお話、世界を揺るがす事件の中で黙々と任務に邁進する「海ざる」に本当に感謝を私たちはしなくてはならない。1600億円の年間事業費で日本の海と領海を護る海上保安庁。

皆さん、是非海上保安友の会にご入会を下さい。色々な行事に参加できます。大きな船に乗っての体験公開や、海難訓練の見学、楽しい行事等のご案内もあります。名古屋の人は第4管区海上保安庁のホームページから参加申込みが出来ますので是非ご参加を願います。貴方のご参加が日本の領海を護る海ざるの励みとなり、誇りとなります。
■6/21     なな月参り       
今日も真夏を思わせる暑い日差しが朝からさしていた。お参りの人達もいつもの通りで法会も9口(僧侶9名)でお勤めをした。法要付き中曲理趣三昧法会を執行した。とても丁寧なお勤めであり時間も必要なのだがチャンと皆様お参りをして頂いた。
本日は私の心から信頼しているお寺様にもお話を頂きその後、私の法話となった。その後、世話人婦人部の方々がお手伝いにお越しになられて夏の祭礼の準備をして頂いた。終わった時は既に5時近かった。

「住職さん、明日も何かお手伝いに来ましょうか?」っと声をかけて頂いた。「そうだね、台所を少しきれいにしてもらおうかな」っと言おうとしたが私が明日少し忙しい。そこで「来週の○曜日にお願いできませんか、10時頃」っと言うと他の方も「分りました」っとご返事を頂いた。「お掃除が済んだらみんなでイタリア村に行こう!」っとまた私が誘うと「はーい」と返事が嬉しそうな声と共に帰ってくる。

「お昼はいらないね、イタリア村でスパゲッティーを食べようね」っと声が出る。「ワシはピザを食べる」っと行く前からもう食べ物の話し。「これで本当のイタリアに行かなくても良いよね!」っと私が言うと「そう、日帰りで毎回イタリアに行くのでもう良いよねー」っとレスポンスの良い返事。ここまでになるには時間もかかったが今私は一番幸せだ。

遊びの話しばかりしている隣では境内清掃の人達が汗を拭きながら笑っていた。その笑っていた中に、この会話の中の奥さんがいる。仲が良いのでお寺の中の雰囲気まで良くなる。庭のアジサイが今年も見事な色を付けるのは、この様な会話がお花にとって良い糧となっているのだろう。
■6/20     モリアオガエル       
今日は真夏を思わせる暑さが境内に充満していた。不思議に吹く風は爽やかで木陰にはいると清々しい。梅雨入りを宣言されて数日経つが雨は思った程に降っていない。

昨日の高野山でのお話。或るお寺を参詣しているととても優しそうな若い僧侶が近づいてきて色々と説明やお話をして下さった。大阪のご出身でお家はお寺では無いという。高野山高校から大学を出ていまお寺で修行をさせて頂いていると私に告げられた。久しく会わない清々しい青年とはこの方の事だと思わせる位の誠実さが溢れていた。

「みなさん、この木の所々に白い泡のようなのもが見えます」っと説明が始った。「この白い泡のような物はモリアオガエルの卵ですよ」っと指を指す方を見ると池の水面からそんなに離れていない所にそのカエルの生み付けたマタゴの巣が見える。「実は、水面より余り離れていない所に巣をかけると雨が少ない。反対に木の上の方に巣をかけると雨が多い」と説明を受け、一つ利口になったような気がした。

「隣に置いてある石は実は化石であり一億年前の木の化石です。一億年のパワーを貰って下さい」っとも言う。カエルの卵を見つめた眼で今度は化石を眺め色々とアチコチをさすり始めだした。「また来年もお参りできますように」っとジッと化石の木に呟く方がお見えであった。

明日はなな月参りの日。たくさんお参りがあると良いが・・・
■6/19
曇/晴    高野山団体参詣から帰る
毎年2回、高野山へバスでお参りに出かける。第二回目のお参りから先ほど帰る。第二回目の団体参詣は2泊3日が毎年の予定である。お寺の予定を眺めながらの参詣であり今回も高野山のみで失礼をして帰ってきた。皆さんは今日は竜神温泉に今頃は浸かられて見えると思います。私も行きたかったが・・・

奥の院で皆さんと別れて久し振りに御廟の前から高野山の中心地、千手院前までトボトボと歩いて帰った。30年以上前何度も何度も歩いた道を久し振りにアチコチ眺めて来た。時間の接続が上手く行かずに大阪に着いたのは2時頃であった。久し振りの難波、南海線から地下鉄、そして新幹線を乗り継いで名古屋駅に到着したのは4時少し前であった。駅に滑り込む新幹線に乗る人の数は恐ろしい程の人が並んでいた。そして改札を出ると人の波であった。大阪の中心地難波を通り過ぎた時にはさほどに思わなかったが、恐ろしい程の人出に改めて万博の集客力の凄さに驚かされた。フラッシュメモリーを新たに購入してお寺に帰ったのは5時前であった。他の僧侶はまだお参りから帰ってこない様子であった。所用で再度名古屋駅にとんぼ返りをしてきた。

今夜は早めに就床して疲れを取るつもり。
■6/17        まんぎょんぼんごう
数日前の話である。お寺の境内でのお話。それも漆黒の闇がお寺の境内をも包み込む夜のお話。イヤイヤ怖いお話ではありません。そしてイヤミな話でもありません。

檀家さんの所へ所用で出かけて良い気分で帰ってきました。檀家さんがされて見えるお店で一杯頂いたのが本当のお話ですが・・・。家内の車の助手席で窓を開けて「今年は涼しいね、ホタルの時期お終わったのかな?」と独り言に近い会話をしながら段々とお寺に近づいてきた。竹藪の横を通り山門の下からお寺へ登ろうとすると遠くに大きなバスが三台も止まっていた。時の頃は10時過ぎ、シンと静まりかえった駐車場に。運転手は3名、しゃがんで話し込んでいた。私は

「あのー何かあったんですか?」っと尋ねると「あんただれ?」って問われた。「あー、私此処の住職ですー」っと窓から赤い顔をして返事をする。「あーっそれは失礼しました。此処にバスを置いて待っていろとの事で止めているのですが・・」
「へー、そんな事聞いている?」っと家内に尋ねても知らないと言う。誰からも連絡もメモもメールも頂いていない。因みに当寺では全ての電話や来訪での依頼事や連絡は専用メモがありチェックの上にもチェックをして、その上で全員のデスクのパソコンや携帯にメールが入るようになっている。それは私の承諾を得た事が前提である。場合によっては担当の判断で済む場合もある。

「ご存じないのですか?」っと運転手。私が「・・・」っと考え込んでいると「スイマセン今からバスを出します」っと言われたので「別に使っている訳ではないのでどうぞ利用してください。幸いお通夜も何もないので・・・」っと答えた。「スイマセン」っと運転手さんたち。
「またこんな夜中にバスを止めて、一体何処へ行くの??デズニーランド」って伺うと「新潟」っと答えられた。「エエエーーッこんな夜中から新潟なんですか、新潟で何があるんですか」っと尋ねてバスの団体名を見たら近所の在日中高級学校のお名前が書かれていて「ヒョッとするとマンギョンボンゴウ??」っと私の口から思わず出てしまった名前。

「そうなんですか、ご苦労様」っと言ってセキュリティーを外すよう電話で伝えてお寺へ帰った。マンギョンボンゴウ・・聞いてはいたがこんな身近で、しかも境内で身近にその名前を口にするとは思いもよらなかった。私が自室に戻ったのは午後10時も半ばを過ぎていた。バス三台、100名以上の方々が真っ暗闇の当寺の駐車場からバスに乗ったのは何時頃だったんだろうか??一言言って頂けたならば照明も皓々と灯し、トイレもお貸しもしたのに。遠慮されたのか??以前こんな事があった。

ご近所である在日の中高級学校運動会で当寺の駐車場を長年快くお貸ししていた時があった。私が駐車場を200台以上の収容能力を上げたので毎年秋の運動会では当てにされ、近隣への対策が軽減されればとの気持ちもあった。しかし、葬儀場の充実と共に予期できない事象は、運動会駐車場利用は、私が良くても、喪主さんからは「葬儀か運動会か!」で苦言を呈されても・・辛い気持ちではあったがお断りをした。この事が遠因なのか?それは定かではない。

この学校のみならず年一回のお祭りで以前の当寺の葬儀会館を利用する時も同じであった。ご遺族からは「お祭り騒ぎで斎場を貸し頂けないなんて」っと言われ「年に一度のお祭りに何故快く貸せないのだ!」っと陰口を叩かれ、若い私はサンドイッチ状態の苦渋を何度も舐めた。

最後はとうとう私の入院騒ぎにまで陥り、視力1.5の視力が失明寸前にまで陥り血圧は240まで昇り深夜の時間外外来で新米の医者にどやされ3ヶ月も入院を余儀なくされた苦い思いが過ぎる。極めつけはもっとあるがもう控えよう。

イヤー、他にも近隣から駐車場の専用借用を何度か求められイヤな思いをキット、双方しているのだろう・・・断るって言いにくい。特にお寺の場合は。
■6/16        色々あった日
昨日、病気で落ち込んでおられる方の事を備忘録で書き留めたら早速に色々なお力添えやセカンドオピニオンをお奨め頂くメールを頂いた。特筆は外科的な治療をした後ではセカンドオピニオンを受けづらいお話を得た。気が付かずにいたがお話を伺うともっともなお話である。当人も、知らずにいた私も含めて改めて感謝を申し述べさえて頂きます。有り難うございました。

今日も、とっても楽しい一時を得たり、見てはいけな恐い体験もしてしまった。まぁ後味良く書く事にすると、家内と二人で名古屋へ出かけた。お寺で働く人の自動車が大分古くなったので新たに車を下見に出かけた。その帰り、前方150b程の高速道路出口付近の二股になった分離帯に真っ赤なスポーツカーが相当のスピードで激突するのを目撃してしまった。車や道路の色々な物が飛び散り周りはけむりだっていた。ドアがバタンと、開くと言うより勝手に開いて高齢の男性が転がり出てきて路上で横たわり始めた。回りの車は止まって男性に声をかけたりドアを閉めたりをするのだが相当の重傷のようであった。私がその側を後ろから押されるように付近を通りかかると散乱した自動車部品やガラス、プラスチック、バンパー、マフラー等それは惨憺たる道路と化していた。幸いに白バイが2台けたたましいサイレンをたてて近づき始めていた。無傷ではいられないだろうが大したことの無いようお祈りしたい。

お昼からは東京から某医大元学長夫人がお参りに来られた。久し振りにお会いする彼女は涙もろく私と話をしていてもボロボロ涙をこぼされる。お参りが済んでホテルまで当寺の公用車でお送りした。帰寺間際「お寿司を頂きましょうよ」と誘われ家内と3名で、夕刻彼女のとっておきのお寿司屋さんへご案内された。確かに旨い、、、本当に旨い。地下にあるお寿司屋さんに入ったのは初めてだけど奥様はチョコチョコお越しになって見えるみたいでカウンターを貸し切りにされおられるのか人が全く来られない。店の出入り口のレジではお断りをしているみたいであった。お開きの時間が過ぎた頃に人がボツボツと入られ始めた。地下から外に出るとほんのりまだ明るい。「ホテルのバーで一杯飲みましょうよ」っとまた誘われ今度は私が手配をした。カウンターでボツボツとお話しされる奥様。色々な事を、聞くとも語るともなく、親身な時間が過ぎてしまった。今度は私が元気をつけますからと言って次回の再会を約束してお別れした。彼女のご主人が現役でお亡くなりになり暫くして一人で船旅に出かけられて3ヶ月後にお土産を頂いた。そのお土産はヴィーヴィー・クリコと言うシャンペンであった。クリコという未亡人が何時も溌剌として若々しく過ごされ、お好みのシャンペンが「瑞々しく若々しいクリコ」ヴィーヴイー・クリコ、それを送って頂いた。私はその時奥様に「このシャンペンは私のこれからの生涯の中で祈念すべき最良の日に頂く事とします」と言ってお礼を申し述べた。そのシャンペンは未だに私のセラーの中で横になっている。気が抜けようと関係ない。泡が出なくても構わない。気持ちだからと思って未だに持っている。今日その送り主、ヴィーヴイー・マダムの顔から笑顔が少し曇り始めていた。次回私が準備する会食会までに元のビビファイな彼女に戻ってきて欲しい。
■6/15 雨/曇        恐ろしい病魔
私と代理とでおまりを済ませる。午前中、一本の電話を受ける。電話の内容は仏壇のお参りをして欲しいと言う内容であった。そして「ヤッパリダメだった」っと言う。「何が?」っと聞き直すと「・・・○だった」と力無く電話の向こうからの答えだった。先日お参りに行った時にマスクをして咳をしていた。胸が変だという。そして胸の中心に盛り上がった腫れがある事を私に告げた。「そんなに心配なら白黒つけて安心なり、治療なりを見極める事だよ」っと私は言ってしまった。二人で落ち込んでいるので「今晩あたり御主人!奥さんを誘って街の灯りを楽しんできたら・・・六本木ケントスなんかで汗をかいてさ・・・」と私は外出を勧めた。

その後、連絡が無いので安心していたら「住職に会う積りで何度かお寺に行ったけど会えなかった」で始まる今回の電話。力なく「やっぱりダメだった」っと言う。返事に声も出なかった。私とそんなにも歳も違わないし、体型も彼の方が断然健康的である。お腹が出ているわけでもタバコを吸う訳でもない。昔も今も歳を感じさせない若々しい白の制服が似合う海の男でも有った。落ち込んだ奥さんの声の向こうに背を丸くしている彼の姿が見える。

今の医療の進歩は目覚しいものがあり一概に難しい病気と言われて力を落とす事は無いし、方や私と一緒に懇親旅行へ何度も出かけて「楽しい余生だわ」っと会う度に言っていただく方もおみだ。何も力を落とす事は無い。しかし本人にしか分からない苦しみも辛さもあるだろう。何とか力になって彼の顔から消えた笑顔をもう一度取り戻してあげたい。
■6/14     突然のイタリア村(名古屋に出来た名所)       
次回のお世話人さんの懇親旅行打合せが済み四方山話をしているとイタリア村の話が出てきた。出てきたと言うより行こうと私が誘ったのだ、明日に。 今、居ない人に申し訳ないのでお声だけでもかけて行こうと思った。
ところが皆さんここ1両日中のご都合の悪方ばかりで天気も梅雨に戻ると言う事で、いつもながらの突然のドライブが始った。20分もマイクロバスを走らせればイタリア村である。
第4管区海上保安庁の旗艦というのか「みずほ」が間近に横たわり、二頭立ての馬車が目の前を行き交い潮風に吹かれるとても気持ちの良いイタリア村。村の中にはゴンドラというのでしょうか?黒い船が水路を、お客を乗せて巡っている。何か歌でも歌うと気分も出るのだが、黙々と金髪を風になびかせて行き来をしている。昼食は海風が吹き抜けるテラスでスパゲティーを頂いた。火曜日なのに驚く程の人出に改めて名古屋の元気良さを感じた。

午前中は友人の御尊父様が入院するというので病院へ出かけて元気が出るように声をかけさせて頂いた。ご本人は相当に気分が滅入っているようであり家族も心配そうであった。みんなが「心配、心配」と言ったら心配だらけになるので、私のような暢気な男が登場すると少しは和むかもしれない。
今日は住職代理が公休、丸チャンが色々と対応をしてくれる。少し休みたいな。
■6/13     世話人懇親旅行下見       
日曜日のお寺の予定を全て勤めて夕方より熱海方面に向う。本来は熱海ではなく熱海沖合に浮かぶ初島のホテルが懇親会のメイン会場となる。ホテルへは数回宿泊をした事があるので様子は分っている積もりだ。
ただ、懇親旅行の始まりから終わりまでの休憩場所、行程、昼食、立ち寄り先、宿泊での部屋割り、宴会のセッティング等を考えると毎回、面倒でも一通り回っている。天気が良かったので熱海界隈の下見も順調であった。

小田原にすごいホテルがあった。何と国が作ったホテルで建てて数年で行き詰まり外資系のホテルが入って建直しをしている。あんな施設を民間が造ろうとしたら普通では先ず、二の足を踏むだろう。
件のホテルは親方日の丸、年金資金で作られた温泉ホテル。泉は枯渇せずに勢いよくお湯を湧出しているが上物の建物はお金が枯渇しているみたい。昨年国会で取り上げられていたが、湯水の如くお金を使った施設のように思えた。何でトイレの仕切り板まで大理石で作るんだろうか?驚いた。でも一度は泊まっても見たい。
帰路は清水の魚市場を下見して夜遅くにお寺へ帰る。懇親旅行当日は天気が良いと良いが。
■6/11     名古屋梅雨入り       
今日は藤田保健衛生大学創立者藤田啓介先生の逝去された日であった。先生にはお世話になった。先生も私のことをいつも「湯川住職」と呼んでいただき歳こそ離れても何時も気を使って頂いた。祭礼の時、空模様が悪いと心配していらしく、お会いすると「良かった、晴れていてくれて」と心にかけていただいた。

当寺の山門名も先生にお付けいただいた。私が男芸者よろしく先生にお願いをした訳ではない。藤田学園建学の精神「独創一理」という絶対に曲げない男気で大学を創設され、困難にも弱音を吐かず孤軍奮闘された先生に私は憧れ、先生を心の頼りに今日まで粉骨砕身きたつもりである。先生も私の姿を見て哀れと思い何かと気を使っていたただいた。嬉しかった、本当に嬉しかった。

「私を利用してください、そしてあなたの良いように私を使ってください。名古屋市長の西尾は私の後輩や、愛知県知事が市長が来てほしい、勲章をやるから来いと言われてもワシは行かんし、貰いもせん、だが住職が来てくれと言えば何時でも何処でも行くから、私を使ってください」。当時私は34歳だった。仁王像開眼供養と史料館会館の記念式典の折、私が催す記念音楽会の一時、私に応接室で先生から直接承った言葉だった。私は唯、黙って頭を下げて気持ちが落ち着くまで頭を上げる事が出来なかった。音楽会も終わり公用車に乗られる先生はご機嫌であった。

暫くすると藤田保健衛生大学創立25年記念音楽会に主賓として招かれ、藤田学園2000人ホールの二階席左最前列に先生、右最前列に私は着席した。エルガー作曲「威風堂々」に聞き入る先生の姿を未だに忘れることができない。世の中に立志伝中の立志という言葉ある。私の今までの人生の中でそんな人ばかりに囲まれてきたことが、幸運というより、不思議でならない。何気ない素振りの中に人を気遣う偉人の情。私は立志伝中の色々な人に可愛がってい貰って今がある。

お寺の行事や種々の会議、来客で一日を終える。
■6/10 晴れ     少し備忘録が止まりました       
事情があり備忘録に加筆できなかった。

婦人部の人が来られて懇親旅行の新たな遊びの先を話されて帰る。とうとうフランスの声が出た。段々と話が大きくなっている。
今日境内整備の人がケガを負った。「自分の不注意ですいません」と謝られた。お寺の仕事をして頂いてケガをしたのだからこちらが本来ならお詫びをしなくてはならないのに。でも大したケガでなく医者も大したことはないと言って貰って本当に安心した。

夏の行事の準備が今日から本格的になってきた。お盆の準備も始った。また世話人会議も来月に開催する予定。古戦場祭の風景写真は数日中にアップします。明日は色々な予定がありお寺も忙しい。では
■6/5
   古戦場祭絶好調
たくさんの方がお見えになって最高のお祭りが出来ました。天候も快晴で汗ばむ陽気のなか、フリーマーケット、武者行列、ハイキング、お茶会と盛りだくさんの行事があり盛会であった。古戦場祭の風景は少ししたらアップします。

私は夕刻より会議と親睦会があり午後3時頃よりお寺を空けていた。会議よりも懇親会が盛り上がり5時間も懇親会をしていて帰ったのが夜10時頃であった。
■6/4 曇/雷雨     古戦場祭開始       
午前中、今川義元公の墓前にて墓前祭、本堂内でお位牌をお出しして供養する霊前祭を執り行った。供養祭の終了後、「直会(なおらい)」(神事や仏事後の会食)とお茶会が催された。お茶席に伺うとまだ娘さんだった方がお子様をお二人お連れになって来てくれていた。とても嬉しく懐かしくお話をした。と言うより「お互い歳を取りました」が挨拶となる。

明日は武者行列や色々なイベントが盛りだくさんに予定されている。鉄砲隊もフリーマーケットも茶席もハイキングもある。事故の無いように盛会を期したい。

子供さんとパチリ 今も昔も美人
■6/3     勉強会へ行く       
午前中葬儀、午後より古戦場祭の準備に町内の方がお見えになり諸準備を開始される。初七日後、蟹江(愛知県海部郡)のお寺へお邪魔して種々の御経の歴史を勉強する。夜は懇親会となりとても楽しい一時を過ごす。
会場となったお寺の住職、コーチャンはこの秋結婚の運びとなりルンルンであった。常連のお寺さんからオメデトウと祝福を頂き本人も照れながらも嬉しそうであった。帰寺したのは10時頃、お寺では丸チャンが忙しそうに電話を取っていた。

明日は古戦場祭。大変に賑わうと思う。私も霊前祭・墓前祭を主催する。天気だけを「快晴」になるように祈って就床する。
■6/2        
昨夜のお通夜で久し振りに亡くなられた方の娘さんに会う。「トシちゃん」と後を追いかけていたお姉さんであった。私もここのお家の方には色々と子供の頃からお世話になった。焼きそばを頂いたりかき氷を頂いたりでヤンチャな私は良く可愛がって貰った。このトシちゃんにお会いした時、子供の頃のトシちゃんがフラッシュバックしてきた。背中に負ぶって貰ったり遊んで貰ったりのトシちゃん。喪主さんが育チャン、弟がセイちゃん。

私もトシちゃんもみんな歳を取っての何十年振りかの再会に、何だか寂しい気分になった。子供の頃は何もなかったし貧乏がみんな染みついていた。そんな中の物のない頃の思いでは美しくもあり、悲しくもあった。何が悲しいのか上手く言えない。でも何だか歳を取りすぎたのが悲しいのだろうか。思い出は歳と取ると輝きもするが涙も誘う物なのかな・・・・今日は雨が降っていたので余計にそんな風に感じるのかな??

今夜もお通夜がある。この方も思い出深い方である。口癖が「オレは東大をすべった。兄貴と一緒になれなかった」が口癖であった。別に実際に行った大学が悪ければそんなにこぼさなくても良いのに、入った大学は国立一期校、旧帝大である。でも何時も「オレは東大をすべった」が愚痴であったが亡くなった今、彼の愚痴は本当は「自慢」だったりして。明日はご冥福を祈りお勤めをさせて頂く。先日来から少し疲れたような気がするので今宵は、住職代理にお願いして早めに就床します。では
■6/1     
昨夜は今夏祭礼の下準備をしようと早めに就床したが深夜から未明に渡り数本電話が入り何度と無くお寺を出入りして結局は何も出来ずに、枕経等へ出向いたりお参りで一日を過ごした。

以前司馬遼太郎さんの「空海の風景」を何度と無く読み返した事があった。昭和52年頃だったか或る場所で数ヶ月間いなくてはならない事となり何度も何度も読み返した。その時読んだ本のオリジナル版というんでしょうか、帯封のある本をもう一度読みたくなったが、ある訳もない。単行本は持っている。と言う事でネットオークションを見ると私が望む上下本が出品されており早速に落札をして本日送って頂いた。

心待ちに待っていた本なので早速読もうとしたら目が霞んで見えない自分に正直ガックリ来た。暗い部屋で何度も何度も読んだ本なのに、今じゃ老眼鏡を書けないとハッキリ読めない自分を慰めて、遙々茨城県から来た本を優しくなでて上げた。この本を読むのに広辞苑を隣に置いて読むとこれまたとても楽しかった思い出であり、30年も前に亡父から頂戴した広辞苑を隣に置いて読む事とする。それと老眼鏡も・・・95歳、気骨の明治生まれの方のお通夜から帰ってから、何十年ぶりの空海の風景を読む事にしよう。(写真は当寺を訪れて私とお話をする司馬遼太郎さん「街道を行く」の取材で来寺)