02 03 04 05 06 07 08 09 10
1 1 1 1 1 1 1 1 1
2 2 2 2 2 2 2 2
3 3 3 3 3 3 3 3
4 4 4 4 4 4 4 4
5 5 5 5 5 5 5 5 5
6 6 6 6 6 6 6 6 6
7 7 7 7 7 7 7 7
8 8 8 8 8 8
9 9 9 9 9 9
10 10 10 10 10 10 10 10
11 11 11 11 11 11 11 11
12 12 12 12 12 12 12 12
名古屋の天気予報
-天気予報コム-

ブラウザをJavaScript対応に設定してください。

平成22年10月分

非営利斎場「六波羅蜜会堂」の動画です
 ご覧下さい

カウンター
■ 10/29 曇り      
今日は半日、病院で検査をしました。或る治験薬の被験者になるための検査と治験開始でお昼過ぎまで病院いました。副作用として「確実に痩せられる・・・」の一言にコロリと頷き、検査数値も低下すると言う一挙両得の妙薬を服し、体重計とにらめっこが始まります。所で私の安静時基礎代謝が1860`カロリーもありました。

これは運動を継続していれば代謝が活発であり治験薬を飲まなくても確実に痩せられると言う事になるのでしょうが・・・自転車も寒さと北風が加わり、ソロソロ飽きてきたし、ゴロゴロとしていても親から貰った基礎代謝を十分に生かせきれないでいる私には、渡りに船と行ったところです。
■ 10/27      寒い一日
先月の今頃は「今年は夏が終わらないのか?」と思えるほどに暑かったのに一転して本日は寒い一にとなりました。朝から御砂踏みの準備で沢山のお世話人さんに来て頂きました。毎年の事とは言え改めて作成図録をたくさん作り説明の後に開始しました。楽しそうな声も聞こえるとホッとしますが皆さん、やる気満々でお昼の2時頃には殆ど終わりました。丸山僧正もお手伝いにお越し下さり本当に助かりました。11月3日は暖かい穏やかに一日にしたいです。
婦人部が御砂の準備をしました
男性会は施設の準備です
お茶ののんで小休止
廊下の準備
昼ご飯です 皆さん食べられたら直ぐに活動
感謝です
あっという間に終わりました 昔を言うと笑われますが
最低2日間かかった作業でした
■ 10/26      重なる会議
今日は全国的にとても寒い1日なり関西では木枯らし一号が吹いたとテレビニュースで伝えていました。昨日午前中は御砂踏みの準備をして半日を過ごしました。お手伝いのお寺の方も応援に来て下さったのですが如何せん、私の予定があり午後より名古屋へ出かけました。名古屋クラウンホテルにて高野山真言宗愛知支所主催地域伝導団主催の11月10日開催の細事最終打ち合わせに出かけました。本当は他の公職の会議が一泊二日で有ったのですが・・・それなりの役職が私にも当たり、当日の詳細や出席予定者の発表を求められ、一泊二日の研修会は後半一日のみの出席をお願いしてクラウンホテルに出かけました。

会議後、お寺に戻らずに東名高速道路から蒲郡を目指し、暗くなって蒲郡プリンスホテルへ到着しました。直ぐに部屋に入りお風呂を頂いて直ぐ、27日開催の「御砂踏み浄衣加持祈祷会」のレジメを作成しました。毎年の資料がパソコンに入っているので加筆訂正をするだけで後はプリントアウトする所まで何とかこぎ着けました。布団に入り色々な事を思い巡らしている内に朝となりました。
ホテルより竹島を望む

私のみの朝食でどなたもお見えになられなかった
朝食は朝、7時半との事、暫く散歩してお食事を頂きました。泊まり客は??どなたともお会いしませでした。早々にホテルをチェックアウトして目指す研修会場へ向かいました。ホテルに入ると多くの人達が思い思いに過ごされておられました。私は事務局へ向かい前日欠席の非礼をお詫びして関係書類を頂き着席して開式を待ちました。隣に居合わせた方より昨日の研修内容を教えて頂き、監督官の講義、インストラクターの実習講義、来賓からの総評を頂いて研修会場を後にしました。東名高速道路を一路お寺に向かい昨日来からの気がかりな事柄や明日の御砂踏みの準備書面を作成して一日を終えました。明日は早朝から準備に来られるお世話人さんへの手順を記したレジメを作成してそれぞれにお渡しする運びです。寒くなってきたので薪ストーブの準備もそろそろ始めようとも思っています。色々と忙しくている毎日です。
研修会があったホテル「明山荘」
公職の研修会でした
皆様 お疲れ様でした
■10/24         
今日は日曜日。予定も多く忙しく一日を終えました。また来月3日に迫った御砂踏みの準備も会場を設営する為の下準備を夕刻行いました。計画的に物事を進めないと後先が逆になったり、荷物の移動で手間を何度もかけなくてはならない事になりますので良く慎重に仕事をしなくてはなりません。。お祭りの計画書も私が作成するのですが、毎年同様の事を行っているので人員配置の更新をすれば殆ど出来上がりのつもりです。

お寺の仕事ばかりではなく他の事業、例えば県内のお寺の寄り合いや、公職等の会議への出席。そのための予定調整もあります。仕事柄、突然の予定変更や様々なお約束の出来ない事柄も発生するので、生き甲斐と言えば生き甲斐ですが、少々歳のせいか?気が落ち着きません。そんな時、お寺の境内や山中を散歩すると色々な思い出や昔の写真を思い出すと、何となくリフレッシュされます。

目の前に寒い冬が迫っています。つい先月の今頃は「何時までこの暑さは続くのだろうか?」と思っていた自分でしたが、今秋半ばから寒くなりそうです。布団も一枚余分に出して休むようして「御砂踏み浄衣加持大祭日」を迎えようと思います。先ほどのNHK特集「シンドラーのリスト」のドキュメンタリーは感慨深いものがありましたね。お休みなさい。
■ 10/22 晴/曇      古い当寺の写真を収集
最近、桶狭間古戦場の明治から大正、昭和初期の桶狭間古戦場の写真を探している。新発見となるような写真も多くあり、先代住職からの言い伝えの様な風聞も、れっきとした写真で出てくると「やっぱり」と鳥肌が立ってくる思いでおります。そんなこんなをしているとここ、高徳院の大昔の写真が色々と発見できます。

昔、昭和10年頃の旧本堂内の写真を見付ける事出来ました。外観は18間の間口で相当の規模が想像できます。内部も見た目は立派であり建立した杉浦諦応僧正の伽藍建立の熱い思いが多くの写真から伝わってきます。口だけで「南無先師尊霊」と唱えますがこの写真を見ると本当にご苦労と強い志が私には伝わってきます。私には到底出来ないお寺の様子を数枚ご覧下さい。(不許複製、無断転載厳禁で願います)
1944年(昭和19年)12月7日 倒壊した旧高徳院本堂
旧高徳院 本堂内部
襖絵は現在 六曲一双の屏風として保存 右の扁額は山県有朋書で現在応接間に現存
■ 10/20      デジカメを安さに負けて
午後より葬儀がありお勤めをしました。葬儀後八事の火葬場に同行してお参りをさせて頂き帰寺する予定でした。先日よりSDカードを利用して音楽録音をしていて加えてプリンターのインクもなくなってしまったので帰り道、コ○マ電機にて求めるつもりで立ち寄りました。初めからインクを求める積もりで携帯で品番まで撮影していました。

少し古いプリンターなのでインクはあるか少し不安でした。探すのも面倒なので店員さんに携帯を見せて即お買い上げさせて頂きました。そうそうSDカードもと思い2ギガのSDを二枚求めました。レジを済ませ、お寺に帰って初七日の葬儀場へ向かうのにも時間の余裕がない。かと言って今から葬儀場へ行くのも早すぎる。と思いつつデジカメ売り場に出かけると私の好きなcasio製Exilimの最新製品の一つ前というカメラが9千円ほどで売っていました。高いのか安いのか分かりませんが新製品では数万円する結構な品です。

迷いましたが時折、或る用で使用する機能が付いていましたので奮発して求めました。手に入ると直ぐに開けないと気が収まらない性分で車に戻りモソモソと箱からデジカメを取り出して今までのデジカメとの違いを手に取っていました。数年前に求めたデジカメとは大差はありませんが立ち上がりも機能も素早く高性能になっていました。もちろん今までのカメラも大切に扱いますが矢張りサッサと動くカメラにはひかれます。気が付けば結構な時間が過ぎていました。カメラを元の箱に収めて急いで葬儀場へ初七日のお参りに出かけさせて頂きました。久しぶりの電気屋さんは人はまばらでした。
■ 10/16      
午前中午後と予定が多く特に、お昼からのご法事は納骨の為、三重県まで出かけました。そんなに山深い場所でもないのですが驚いたことがありました。それは墓地に到着後、お花をお供えに一足先に着いた女性の方が「サルがいる。集団で50匹ぐらいいる」と青ざめて震っている。と、その時、大型のサルが出てきて騒ぎになった。私も驚きました。

親分級のサルは大きなお墓の天辺にベッタリと寝そべっていてお墓の尊厳も何もかもサルにかかったら酷い物でした。「目を合わせないよう」「果物は出さないよう」「お花も狙われるかも知れない」・・・せっかく名古屋から三重県員弁まで納骨に来たので引き返す訳にも行かず・・・納骨の準備を進めました。私の出来ることは「鐘をチンチンたたいて音を出しますね」くらいでした。遠くでは竹やぶでサルが大暴れしているのか?凄い調子の声と竹が大揺れしていました。テレビで他人事と思っていましたが噛みつかれなくて本当に好かったです。
■ 10/14      清々しい一日
本日は八事の医院まで自転車で出かけました。凄い距離のように想いますが一時間も自転車をこぐと到着します。初めは予約時間に間に合うかな?何て想いながらペダルを踏んで一号線に出ました。鳴海を通り過ぎ、野並に出てフラフラと気ままに自転車を踏んでいると左手には天白川がありました。天白川を渡って昭和高校の側を抜けて八事の交差点。

昔と変わらないゴチャゴチャした交差点を抜けて坂道の左は中京大学。そのまままっすぐ行くと例の医院があるのだが早く着いたので八事界隈、、、普段車で入れないような所へも自転車ならスイスイ。色々と感心しながら自転車を走らす自分を思うと、空き巣の下見に思われても詰まらないので早速お医者さんへ行きました。お医者さんへ行ったら「眼科も一度受診したら」と言われて眼科を受診。「何ともないです」と言われてホッとして再び自転車にまたがりました。「ハテ、帰路は?」と思案をして先ほど眺めた天白川沿いに南に降れば鳴海に出るので昭和高校の側の橋から天白川沿いに自転車を走らせました。

天白川の側を通ると鳥はさえずり、水は清流でした。ただ、生活臭のある水の流れであり、「水は大切だな、例え味噌汁一杯でも川を汚してはいけないな」と改めて思いました。水はキラキラと光るのですが、眼科で目の中を見る為に瞳を開ける点眼をされたので眩しくて眩しくて仕方なく、たまたま持参していたサングラスをかけても眩しかったです。気分は爽快、携帯電話に録音した色々な音楽を聞きながら鳴海駅付近から旧道を抜け、子供の頃に祭礼に一度だけ出かけてきた天神様の前を久しぶりに通り抜け、有松旧道を走り抜けてお寺へ帰りました。

本日は検査でしたので朝食抜き、お昼もこの調子で自転車に乗っていたので抜いてしまいました。鳩サブレが机の上に有ったのでムシャムシャと食べてしまった後から「何時のお菓子だったか?」と少々古くさい香りに「まぁ良いか」で夕方を迎えました。夕刻は友人とお寺の庭で簡単な会食をして気が付いたら午後11時でした。本日は色々とありました。
■ 10/11      安全な日本
インドから帰ってきた??16歳の少年がお仏壇の後に座ってお参りをして下さった。ここのお婆さんは元気な方で数年前もブラジルに三ヶ月もいて「楽しかった・・もう一度行きたい」と感想をいつも私に紹介下さっていた。

「この子は私の孫でこの間インドから帰ってきたばかりなのよ」と紹介下さった。ご主人の仕事の関係でインドへ家族共々移住していたのに帰ってこられた「インドはね、和尚さん、汚い所よホントにさ」と隣のお婆さんが見てきたようなことを言う。娘さんは息子さんと一緒に帰ってきたのだが息子さん(お孫さん)は元気がない。聞いてみるとデング熱に罹りインドの都会の結構立派な病院へ行ったんだそうです。一泊12000円もする個室に入って酷い治療を受けたそうです。治療の治療が必要になりイタチごっこの治療に見切りを付けて日本に舞い戻り、「インドには帰りたくない」とお孫さんが真顔で私に零していた。

「なんたって13億人の人間が居る。人ヒト人だらけだが治安は良い。宗主国イギリスに留学しイギリスを尊敬している人が多い」とお話しして下さった。「あのね和尚さん、インドはカーストがあるでしょう。仕事は決められているの。だけどITとかインターネットは身分も差別もないのでインドでは凄い勢いで発展するって、何だか分かりますね」と現代インドを紹介下さった。

「インドとブラジル、どっちに住みたい?」って尋ねたら、お婆さんが一番に手を挙げ「ブラジル」って言っていました。私もブラジルに行ってみたくなりました。
■10/10        天気の良い一日            
本日は名鉄ハイキングがありました。お寺はあまり変わりませんが昨夜来の雨もすっかりと上がり快晴の下でハイキングを楽しまれたかと想います。

家内がお寺の山道を車で帰る時に拾った栗です。あれ程に暑く苦しかった季節もすっかりと忘れてさせてくれるイガグリ君です。こんなものをアップすると栗拾いに来られると想いますが拾わないで下さい。お寺にはカラスに狸に小鳥に色々な小動物が来ます。彼らにとっては大切な食料源ですので・・・

十月十日は好天の特異日と言われていますが本当によい一日でした。昭和三十九年東京オリンピックが開催され戦後19年でオリンピックにまでこぎ着けた日本ではありました。心躍り、今でもあのときの感動を子供ながらに忘れることが出来ません。ファンファーレはエキゾチックなメロディーであり高音の抜けきった音色は三連音符がうまく絡み合い神々しい音色でした。古関裕而さん作曲「東京オリンピックマーチ」はジッと畳の上で落ち着いてテレビを見ていられるような雰囲気では私にとって、ありませんでした。私は、小躍りして涙を流しながら赤のブレザーに白のズボンの制服姿の日本選手団が誇らしげに行進が開始され天皇陛下の前にて一礼する姿に私は失神する程の感激を未だに覚えております。

聖火が入場し平和の祭典、オリンピックが切っ掛けで私が何か運動を始めるかとお思いでしょうか? いえいえ、私はあの演奏をしていた大勢のブラスバンドの姿に惚れ込んでしまい将来機会があれば音楽を吹奏してみたい虜になってしまいました。しかし私の変なところは、楽器を持って練習を始めるまで、恥ずかしい話しですが、音符が全く読めなかったんです。子供の頃からオルガンやピアノは練習していましたが、煩わしい音楽史や音楽の形式は大嫌いで、♯や♭が幾つも重なっている五線譜に山盛りの音符を見るのは、それこそ失神しそうで大嫌いでした。

不思議にピアノは弾いてはいたんですが・・・音符は読んでいた記憶がないのです。まぁどっちでも良いのですが、あの秋空の下の東京オリンピックは小学校5年生の私にとって感激を電波に乗せて体の芯まで奮わせてくれたことには間違いなかったです。感激でした。そした毎年この日になるとあの感激を思い出させずには居られません。



■ 10/7 晴/雨      突然の・・・
バーベキューが始まりました。私が季節の食材を買ってきたことにその端が発せられ夕刻には賑やかな旅行の反省会が為されました。松茸、飛騨牛、京漬け物、色々なお飲み物と20名程の盛り上がった宴会になりました。突然、それも午後二時頃からが全ての始まりで楽しく一時を過ごしました。急な宴席で全ての世話人さんにお声を懸けることも出来ないまま午後八時頃には雨と共に終えました。「来年はハワイへ行こう」と言う酔った席ならではの視界不良のお話も出ました。とても仲の良いお世話人さん方。私は幸せです。
■ 10/5      大日寺参詣
お世話人さん方々と親睦を兼ねて弟のお寺、大日寺を参詣させて頂いた。4日07:30名古屋を出発して一路姫路へ向かいました。酷い雨が降っており、到着地の事を心配しておりましたが最初の訪問地書写山円経寺へ参りました。このお寺は西の比叡山と言われる大変立派なお寺で驚きました。かねて弟よりこのお寺のことを伺ってはいましたが大変素晴らしいお寺でした。そして弟が待つ大日寺へ向かいお茶のお接待を頂きながらご住職のご挨拶を頂きました。 

宿泊はエクシブ鳴門へ参りました。夜は22名の会席料理を頂きながら大爆笑の中での懇親会に時を忘れて過ごしました。翌朝は素晴らしい快晴。朝食後お土産屋さんへ立ち寄りしながら兵庫県三木インター近くのキリンビール工場を見学。そこで昼食を頂いて夕方に帰寺しました。笑顔笑顔のバスの中はいつも笑い声が絶えなくてとても楽しい旅行でした。お写真を載せますので、楽しそうな様子をご覧下さい。
お昼ご飯を頂いたうどん屋さん ↓
ご縁は不思議なもので若い僧侶二人に偶然会いました
このお二人のお父様と私は一年間同じお寺で同じ釜のご飯を頂いた仲でした
本当に立派に御成長されたお二人に突然会うことが出来て本当に幸せであり
亡きお父様(横浜のお寺)のお導きと想います。横浜と愛知の住職が姫路で会うなんて・・
小さなお子様を背中に檀家様をお連れして読経をなし御詠歌を上げ
そのお背中で育つお孫さんは将来、お二人同様立派な僧侶に成られると拝察しました
姫路の弟のお寺 大日寺 本堂前にて
本堂内にて住職さんからのご挨拶
名残惜しいですが来年も又来ますよ・・
鳴門のホテルへ到着しました
楽しい宴会の始まりです
翌朝は快晴の天気 とても清々しく秋らしかったです
途中毎年寄り道する魚屋さんでの風景
キリンビール工場見学
お昼ご飯の会場
工場見学の始まり
この券は重要です 試飲とお代わりが出来る券です
名札は13:00の工場見学団体の目印です
ビールの香りの素「ホップ」と麦芽を拝見しました
プロジェクターを利用しての説明
目まぐるしく動く缶ビール工場の内部
私も頂きました ノンアルコールビール
今までのこの手のビールとは全く違う美味しさがありました
ノンアルコールビールなのに酔った気分になるのが不思議でした
お世話人さん内でお一人御誕生日の方がお見えでした
記念のカードを頂いて大満足・・・・嬉しかった〜と満面笑み
無事 夕方5時半頃にお寺に到着でき、皆さん大満足のご様子でした。
私も運転お疲れ様でした。お手伝いの運転手さんもご苦労様でした。
■10/3 晴/雨        予定の多い一日でした            
本日は朝からお詣りやご法事等が多くありお寺の中も大変に賑やかでした。中でも会食があり30名近い方々の会食やお供え物の連絡等があったので手落ちや失念が無いように注意をしました。午前中午後も良い天気でしたが夜にはいると雨模様となりました。ご法事をされた方々には大変に好天候で行えたと思い好かったと思います。

話はがらりと変わりますが日中国交正常化を果たした周恩来首相と田中角栄総理大臣。北京空港に降り立ち中国儀仗兵の先導の下、赤い絨毯を進む田中首相と周恩来首相。流れる中国儀仗音楽隊の栄誉礼のメロディーは今でも口ずさむことが出来、その姿を思い出す事ができます。その後、改革開放路線を唱え、一時は失脚したケ小平は日本の資金供与と技術供与を思想も見栄も外聞もなくかなぐり捨てて富国強兵の国家を目指していた。

後年、失意の田中氏を訪ねたケ小平は「井戸水の飲む時、井戸を掘った人への感謝を忘れない」と言うニュアンスの言葉が新聞の紙面に踊り、新幹線に乗って富士山を眺めているケ小平を、日本の殆どの国民が彼を身近に、そして信用をして人々は中国へ集中し始めていったように思います。丁度その頃だったか?、名古屋に愛知工業大学があり後藤学長がピンポン外交を行っていたことも記憶に私は留めています。

上海郊外に日本の代表する製鉄会社が出来上がり、彼方此方では中国政府の政策での合弁会社設立で、日本の資本と技術が惜しげもなく注ぎ込まれ、一方は安い人件費の売り物と技術の移転と資本提供を条件にして全てを自国に取り込む目論に、今では一方的な中国の勝利となって、今この国は地団駄を踏んで怒っている。

その根底には「井戸水の飲む時、井戸を掘った人への感謝を忘れない」と言うケ小平の言葉と同じ東洋人であり、恩讐を超えた隣人関係が出来上がると信じていたのだが・・・。突然国を挙げての反日教育は韓国まで飛び火をして毎度毎度、事ある度に恫喝を加え、揺するだけ揺すって恩も義理もない儒教?の国に怒っているのは私だけではないと思う。あのアジア通貨危機の折、アジアの通貨、とりわけウォンの買い支えを一体何処の国がしてくれたのか? 当の国民は金貨や金歯、ネックレス等を供出しても焼け石に水状態であったのに・・・・

しかし、今現在、乏しい海外の油田の採掘権をアメリカ政府から放棄させられたこの時期の尖閣沖での米空母を中心とした日米軍事演習。外交の不可解さと難しさ、指導者の頭の中を想うに気の毒としか言えない。政治を評論するのは簡単だけど、最終判断を下す権力者に寄って集って「俺が俺が!」の席取り争いには気が知れないです。龍馬伝を見ながら「龍馬ならどうするのでしょうか?この日本」と想いました。
■ 10/1      38年ぶりの参詣
高野山奥の院では毎年10月に万灯会(まんとうえ)と言う法要が行われている。私のいた頃は五日間連続でその法会が行われていた。丁度その頃は私ども修行の若僧はとても忙しい日程の中を強制的に出席を要請されお参りをさせて頂いた。毎日毎日色々な修養をしながら朝は四時前前から起床して一日に参座の作法を各々三時間程行いその間に清掃や身支度、食事に伝授と目まぐるしく過ぎていく毎日の中の万灯会。往復二時間?片道二キロの道のりをへて奥の院にたどり着き万灯会の法要に参加をするのであった。

初めて着る古来からの装束の衣に、重い金襴の袈裟に純白の襟巻き、木で出来た鼻高(びこう)と言う靴を履き大勢で列をなしてガランゴロンと灯籠堂へ向かうその気分は「あぁ、自分は僧侶になったんだな」と言う新鮮な気分と後戻りなぞ思いも付かない決心は、強烈な自覚を私に植え付けてくれた。三十八年前の私を思い出させてくれた一枚の写真。

今年のお盆に、この10月に万灯会が有ることを思いだして三十八年前の私が、今は息子が高野山いる事を思い諸般の用事をかねて登山させて頂いた。毎月何度となく登山させてお参りをさせて頂いているのにのだが今日は特別の思いで登らせて頂いた。厳粛且つ清冽な空気の中を息子も読経しているだろう灯籠堂にて手を合わせて頂かせてもらいました。38年の時間は私にとって色々ありましたがもう戻ってこない青春の素晴らしいお参りを私に再度プレゼントして下さいました。来年から必ず息子を連れてこの万灯会に列席をさせて頂こうと思いました。

奥の院高徳院墓所にて納骨や他の所用もあり二日間高野山に滞在しましたが有難くあり、また参詣人の激減に寂しくもありました。良い勉強になりました。