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古戦場「今昔写真集」
昭和12年12月22日文部大臣指定史跡(伝説地)として、右側にはお寺の入り口が見える。 当時まだ電気が来ておらず寺の山中に電灯を大量に灯して電気使用の実績を作り通電にこぎ着けた。現在その名残が、本坊大玄関門灯・本堂門灯他の電球にかぶせられているガラスの白いカバーである。その大量の人の頭ほどのガラスカバーは、何と寺の中の防空壕に山ほど積み上げられていて子供の頃、その穴を覗くと白骨の頭蓋骨に見え父に理由を尋ねると、人事のように経緯を淡々と話してくれた毎日竹箒で清掃していたので写真を見て大変きれいだ。誰も来ないのに(私も以前は竹箒も持ったがここ迄は来なかった)
下の2枚の写真と同じ方向から撮した写真。白い石柱は大正4年御大典記念の物で有松町有志により建立の銘がある 手前の黒い碑は「弔古碑」(チョウコノヒ)で津島神社の神官で氷室豊永ヒムロトヨナガ(尾張藩士松井小十郎弘蕎2男)が先祖である松井宗信の戦死の事と、平和の時に乱世を戒める名文句が「秦鼎(はたかなえ)」によって撰文され、私は素人ですが素晴らしい書体で見事に書かれています。見ればナンだと思うかも知れませんが私は、文の内容も書体も素晴らしいものだと思います 遠くには将来建つことも予想できない山門や会館のの予定地が見えます
写真
いつ頃の写真だろうか 先代住職のライフワーク「管見桶狭間古戦場 今川義元の最期」の資料収拾の時に見つけた物 時代は不明 名古屋方面へ向かう旧東海道 荷馬車の道先が左に曲がっている 現在の旧東海道も全く現地は同じである 無論国道一号線は影も形もない もっとも荷馬車が真っ直ぐ行けばその航跡にとなるが・・・・ キット真下の写真の一番小さい石碑がこれに当たるのかもしれない
右の写真は昭和10年の頃の写真だそうです

 色々と上の写真と比較検討するとあまり相違の無い
 ことが解ります

  (豊明市役所ホームページより許可を得て転載)
少し見難いが石柱が道路端に何本か立ち並んでいる。この道路は赤線道路で東海道より「7石表」「今川公・松井公両墓所」「当寺」に通じて再び東海道に合流する迂回の道である。現在は東海財務局より当寺に払い下げられ(有償)現在は道は寺へ登る石階段にその痕跡を残すのみである  これらの木々は伊勢湾台風で全部倒壊し、とある町の住民が全部伐採して売り飛ばしてしまった。その頃まで、困窮の続く時代であった。毎朝竹箒で清掃し、お勤めをしていた先代達は何時とはなく、ため息混じりに私に話をしていた・・・・
同じ方向より撮す。左側の写真で道の果てに白い石塔が見える。大正4年緑区桶狭間の人たちが大正天皇の即位記念に建立した物。上記の写真の中央部に同石塔がある。現在古戦場の大きな楠(夫婦楠)は、寺の楠を2本移植したため右のハ真には無い。
子供の頃、低湿地帯で蛍がたくさん飛び交い恰も亡霊の様でした。地元で時折写真映画会が催されこの場所で何度と無く靴に水を入れて母に叱られた
義元墓
この写真は今川義元公の墓所。ここは昔と少しも変わらない。只一度だけ様変わりする時があったそうです。それは、一度確認をしなくてはならないのですが、明治大正の頃、とても高貴な方がお越しになると言うことで、この墓石の正面をお迎えする方角。即ち南面する正面を、北面に変えると言う意見が出たそうです。でも、北面にすることなく現在もそのままの姿だそうです。この話は先代住職より聞いた話です。この墓地を作った方は、明治9年5月愛知県令高島崇識がこの墓石を建立した。それ以前は土盛りをしただけの粗末なお墓で、一番古い史料は1610年関東下向道記にその存在を確認できます。その後明和8年12月18日尾張藩士、藩校明倫堂の人見弥右エ門、赤林孫七らが長久手の古戦場を巡り終えこの地に向かいて、桶狭遊記を記し墓所に石碑を建て現在、墓所裏に有ります
猶、今川公の墓所は静岡県臨済寺にあります。首は臨済寺、胴は豊川市牛久保の大聖寺に胴塚として祀られ、戦死の地には墓所をあらわすのでしょうか
 古戦場合戦での武器を明治政府の要請にて日露戦争に供出し、結果日露戦争の戦勝記念品として、陸軍大臣寺内正毅、海軍大臣斉藤実より下賜されたロシア軍の野砲および焼夷弾の品々。
田舎の官幣大社へ行くと未だに砲弾が起きっぱなしになっている神社を、和歌山県で29年前見たことがあります。現在はこの戦利品も第2次世界大戦に供出、敗戦の終末であり、現在高札のみが史料館に保存されている。因にこの野砲を駅まで運んだという地元の方が未だにお見えである
東海道(国道一号線)より、当寺及び古戦場への入り口石柱が建っている所に、現在は高徳院の看板があり、松の梺の付近が現在、ガソリンスタンドである
この東海道の東側、コンコンと清水が涌き、道中の水飲み場であり50年ほど前まであった泉から、今川家の部下のお墓、 今川公、松井公、寺境内及び山内を抜け再び東海道に合流する道が、つい最近まであった。何もない原野同然の頃、旅の道すがら桶狭間の古跡名所を少し迂回して見て通り過ぎては知らぬ間に出来た道、それが再び知らない内に消えて地図の上だけに赤線道路として残る。最近まで不思議な想いがしていた。家が増え、木々が大きくなると、どうしてこんな所に道があるのだろうと思ってしま。この写真はそんな不思議に答えを出してくれた気がする