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香華山 高徳院の寺院としての変遷

開創者:弘法大師 空海
遣唐使として唐の都「長安」より真言密教を招来されて帰国後(大同元年)、河内の国高貴寺(役行者開創)に於いて、仮寓されておられました。
 実はこの時は大師にとられてはとても重要な時期でありました。遣唐使にて帰国早々、ご自身が招来した膨大な経典、書籍、仏教絵画、工芸品等々それも日本の以降の文化を一変させるほどの品々の「目録」を朝廷に報告を果たす
「御招来目録(ごしょうらいもくろく)の作成に時間を費やす日々でした。
伝 高岳親王 筆  
現在と違い留学生は国益を招来する事が留学目的とされ命がけの渡航でした。 そして当寺の朝廷と唐の皇帝の出入国の許可及び遣唐大使(藤原葛野麻呂)の現代で言う査証「勅許」が入国の絶対条件でした
 また受入先の唐側も留学生(りゅうがくしょう)には布や僅かながら給費もなされ唐側の懐の深さも大陸の寛容さにキット大師も感慨深かったと思います。
御招来目録の作成後より約2年間程京都に入らずこの地を中心に活動をされておられました。当寺、高貴寺は香花寺(司馬遼太郎「空海の風景」)と言われ花の香薫る草花の寺と言われていました。現在も、高徳院と同じく同宗同派の高野山派の寺院ですすが律寺の風格有るお寺です。

本尊 高貴徳王菩薩を叡福寺にてご感得
高貴寺に仮寓されたおり、「叡福寺」聖徳太子廟前にて100日間参籠時に不思議なことに97日目夜半に、現高徳院「本尊高貴徳王菩薩」を感得し、早速高貴寺にて一木造の菩薩を刻して当寺「香花寺」と言われていた名前を「高貴寺」に改めたと寺伝に伝わっています。

浄土宗「法然上人」は同様に叡福寺聖徳太子廟前にてお勤めされたところ、大師より一に早く96日目に同様のご経験をされたそうです 
伝聞ではありますが、高貴徳王菩薩よりの垂示は、三蔵法師玄奘三蔵が天竺により招来した大般若経を招来するまで16善神が玄奘三蔵を守護した事を告げ、天然痘等大陸からもたらされた疫病や飢饉、天変地異で苦しむ諸人の難の払う教えを垂示されたそうです。
当山の夏の「土用丑きゅうり加持」祈祷会」もこれに因み、キュウリを献じて身代わりとなっていただき、一年間の無病息災を祈る祈祷会が今でも続いています。

高徳院高野山にて開創

 因に現在の高貴寺に奉られている高貴徳王菩薩像は、大正9年頃岡山県、福田海のご尽力により高徳院の本尊様が愛知県より大阪府高貴寺に赴きて模刻され現在奥の院に奉られています
本尊高貴徳王菩薩は「高貴寺」に運ばれ模刻され、再び高徳院にまつられました。

福田会はそのご縁を結んだしるしに当地で亡くなられた今川義元公の木造を高徳院で彫り寄進をされました。写真には右肩には「福田海」の字が見えます
福田海の寄進で彫り進められる今川公の木造

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