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高徳院開創  和歌山県 高野山にて

大師は、高貴徳王菩薩を高貴寺より勧請し

高野山上に安置して一院を建立しました

開創の場所は弘仁7年嵯峨天皇より高野山を7里四下賜され年月日は不詳ですが高野山開創後のあまり遅くない時期に河内の国高貴寺より本尊高貴徳王菩を高野山上に勧請し、「王菩薩」の高徳院なる一院を建立し、弟子の智泉大徳に与えました。高野山上の古絵図を見ますと現在の本山金剛峰寺東宗務所の向かい辺りにその名前をみることができます。
聞き慣れない現在当寺の高貴徳王菩薩はどのような仏様なのでしょうか。
大師の生まれる前、仏の世界にあってはこの高貴徳王菩薩さまであったという信仰があったそうです。前の章で記しましたが河内の国「叡福寺」太子廟前にて100日間の参籠の折り、97日目にこの高貴徳王菩薩が現れ大般若の教えを説かれ現世利益の法を垂示され、当寺の夏の大祭
「きゅうり加持」が草創されたとの寺伝があります。
江戸期 高野山上での住職 過去帳の一部
左の金剛峰寺諸院家析負集5によると   

本尊 弥勒菩薩 座像
阿闍梨 増範 当院先師
  元禄三年庚午年5月初2日入寂
左學頭 隆寶 同
 享保四巳亥歳十一月十一日入寂
阿闍梨 隆遍 同
 享保十貳未年三月二十二日入寂
左學頭 栄澄 同
 寛保二○戌七月十六日入寂
阿闍梨 映津 同
 天明五乙巳年七月二十三日入寂
阿闍梨 弁幢 同
 文政三辰年二月六日入寂
入寺 弁隆
 天保三辰年十月朔日 入寂

以下記載なし
総本山金剛峰寺 調度課 寺院調査表より転載 明治二十六年迄の調査を記載
江戸末期までの高野山上寺院は、現在では殆ど無い事とと思いますが高野山上での所在地を移動させることがあったとのことです。高野山は山深い場所にあり落雷や山火事、水害を避け、また方角の吉凶に基づき所在を時々変えておったとの事でした。(高野山大学日野西教授談)
 当院も時代時代の古絵図等を見ると他の寺院
と同じく時々に場所を変えております。今となっては不思議な感も致します。

元禄年間には僅かながら
扶持を頂く寺となり学頭僧が出るまでの寺院となりました。しかしながら不思議なことに当寺の寺院の戸籍に当たる高野山諸院家析負部集等を閲覧すると本尊が弥勒菩薩に変わっております。江戸末期までは当寺の本尊は弥勒菩薩であった事になります。

室町初期の弥勒菩薩 当寺持仏堂 安置  (名古屋市博物館学芸委員の談
弘法大師はご自身を慈氏(弥勒菩薩)として兜率にあって弥勒菩薩が56億7千年後に再度、混沌とした世上に現れ(下生「ゲショウ」)して弥勒菩薩と共に自分はこの世を救うと誓願したそうです。
歴史家の方は、高野山上での「學会(ガクエ)」勉強を競い合う法要に破れた「高野聖」が全国を回り、大師の奇徳を説くために生まれた信仰で、高野浄土共に弥勒信仰と共に、弥勒菩薩を祭り始めたために、当寺の本尊様も高貴徳王菩薩様に変わったのかも知れません。時勢に流され真言宗から他宗に変わった寺も愛知県には多く「薬師如来・不動明王・・」等密教寺院でしか祀らない仏様を祀る寺院は、元真言宗や天台宗が多い。まして、弘法大師を祀る自体、世上が無関心を良いことにとても理解に苦しむ。
当寺は高貴徳王菩薩、弥勒菩薩他の密教仏を昔よりお祀りしています

「紀伊続風土記 高野山之部 學侶」には以下の通り記載があります
  • 高徳院 向壇 堯王院 北隣にあり
  • 開基   未詳
  • 本尊  弥勒菩薩  作者 不審
  • 棟宇・房舎  一宇
  • 庫       一宇
  • 門       一處
  • 所領     明和年間 二石を配置セリ
  •         然るに 映津律師住持の時五石を増加し七石とす
江戸時代、小規模でこぢんまりした寺院の規模が窺えます。その当時は、高野山頂寺院では宿坊経営の寺院は無く、特定の大名等の菩提寺として有る以外、殆どのお寺があばら屋同然。加えて明治維新廃仏毀釈・神仏分離で寺院運営は危機的状況に貧していた事は、誰の目にも明らかであった
愛知県に移転
高野山より愛知県に移転した書類
本山の書類
 (提供 元高野山真言宗々会議長 宇賀哲也大   僧正より)

 ■明治26年5月15日和歌山縣管下紀伊國伊都  郡高野村大字高野山字小田原谷295番地より
 ■尾張國愛知郡愛知郡豊明村15番地移転(明   治26年8月18日)届出済
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