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■愛知県に 移転中興(明治・大正の頃)

最盛期3000ヶ寺の寺院が現在は153ヶ寺 宿坊寺院は53ヶ寺に激減??

江戸期より明治に入って、高野山上には沢山の寺院が有り寺院の整理が和歌山県庁から本山へ行政指導があり、多くの寺院が廃寺又は有力寺院に吸収合併されて現在に至っています。
高野山へ行きますとお寺の門柱に沢山の寺院の名前が併記されている事もその名残です。高徳院は、東京都墨田区吾妻橋傍の遍照院、諦念和尚が高野山巴陵院徒弟として加行潅頂を終え高野山上の高徳院の廃寺の難を、法縁を以て尾張国愛知郡豊明村15番地 現在地に本尊・仏具・法具等を移転し堂塔伽藍を整備する現在にまでに至らしめました。
 ただ何処からも援助も何もなく、自らの高き志と求道と熱意とで高野山から移転建立は大変困難を極め、後年の天災や改修に困難を極めたことは容易に推察が出来る


移転建立された本堂(現本堂) 18間の本堂 東南海地震にて倒壊

又この地は室町末期の桶狭間古戦場に隣接し 江戸期には尾張藩の御除地として官地であり、以前は大変な広大な面積に寺院が中興され、桶狭間合戦の戦没者の供養と併せ、この地の大師信仰の布教の地を目的に移転中興されました

明治の頃と思われる「東海道」から当寺への入り口、現在(平成24年現在)の入口付近には道路が拡幅され信号機が設置されています。東西には東海道が往時の街道の残しております。  塔婆と石柱の間に見える丘が石塚山で合戦の折り、戦没者を埋葬し石の塚を建てたという故事から「石塚山」と言います
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 また本山から移転完了を済ませた江戸遍照院「諦念和尚」は鍼灸の術を施し薬湯、施薬の寺院としてもその名を馳せこの地に赴いた後も、東海道を往来する旅人に、薬湯・鍼灸・施薬等の対応されていたと伝聞しております  現在の東京本所遍照院住職は循環器の専門医でありお子さまたちもお医者さんや医療従事者でご活躍であります 

急がずば 濡れまじものを旅人の
 後より晴るる 野路のむらさめ
 

(寺に伝わる詠人不詳)