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名古屋の天気予報
-天気予報コム-

平成19年2月分
平成19年度行事予定

■2/27           
茨城より葬儀から帰る。立派なご葬儀でありお寺の奥様の人柄が偲ばれる心こもった葬儀でした。水戸偕楽園では梅が満開とか・・・折角の都合でしたので見たかったのですがお寺で用があったので急いで帰ってきました。

常磐線は大変揺れる記憶があり体調を整えて参りました。携帯電話とパソコンを使って予約を入れ座席も指定して万端の用意で出かけました。便利なものですパソコン等は。駅に行けばカードを入れるだけで事前に予約したものが発券されスイスイ。以前水戸まで行った時には満席で喫煙席に座りとても辛い思いをしました。ホテルもネットでお安く禁煙の出来て真新しい施設、それも駅に隣接する好立地な場所に投宿出来ました。

ホテルも感想が幾つかネットに書かれていて選ぶ時の参考になり実際投宿すると、ネットをしていて良かったな、利器を利用できる時代にいて良かったと思う次第でした。規制緩和等で大競争時代に突入した現在、情報は豊富で瞬時に伝わってしまう。利用者にとって大変住みよい時代となりました。

しかし今年の冬は大変暖かく水戸郊外の寺院にいてもポカポカの陽気。何事もなければよいのだが・・・
■2/24           
午前中、不調で少し休む。婦人部の世話人さん達が彼岸会の案内状等を封筒に入れ封緘までして下さった。あっと言う間に完了。挨拶も出来ずに帰られた。

午後の法事は私が行く事として出掛ける。急に寒くなったので調子が悪いのか?夜は気分も良くなったので一万歩越えの散歩を済ませて早めの就床。明日は忙しく午後からは遠方への出仕も控えている。体調を整える事とする。
■2/23           
久し振りの雨。一日何をすると言う事もなく過ごす。

久し振りに本を求めて少し読み出す。以前はよく読んだのだが目がサッパリ・・・となると読まなくなってしまった。しかし何を読んだかというと年寄りが始める「映画を見ての英語ヒヤリング」。仰々しいタイトルだがオードリー・ヘップバーンのあの笑顔が目に良く付く所に置かれていた本で何となく買ってしまった。

本をパラパラッと一読して附属のDVDをパソコンに入れる。若々しいヘップバーン。頼もしくも優しそうなグレゴリーペック。真実の口に手を入れてはしゃぐ二人。お別れの時が来た車の中の二人。ジッと眺めてジンと来た。若々しいとは清々しいとはあの事だよなって想い、古き良き映画を眺めていた。私の若い頃には色々と感動する映画がタケノコのようにあった。日本映画にも黒沢監督の名作や小津安二郎のしっとりとしたまた生活感の漂う映画が多かった。

久し振りに見るヘップバーンもグレゴリーペックも、当たり前ではあるが、銀幕を飾った昔のそのままであった。何だか若い時に帰ったような気分となり「もう一度○をしてみたいな」なんて思いました。心とトキメキ、寝ても覚めても思い続ける様な○を・・・。

何を考えているのか、本のタイトルである英語ヒヤリングはどこかへ飛んでいって影も形もなくなりました。昨夜の夢見は良かった。やっぱり春なんですな。
■2/22           
暖かい一日であった。日課となりつつある散歩に出掛けるとジンチョウゲの花の香りがするお家の庭先を通った。春だなーっと実感するも三月の声を未だ聞いていない。夜道に真っ白に浮かび上がる梅の木々もきれいだ。甘酸っぱい香りがする。梅はすでに10日ほど咲き続けている。再び歩むとお巡りさんが数名、無灯火の自転車の検問をしている。

最近私が求めた品に音楽を録音して両耳で楽しむ小型の録音再生機を求めた。時折電車の中で茶髪の兄ちゃん達がイヤフォンを両耳にはめてザーザーァと耳障りな音を周りに発しているアノ機器です。今まではラジオを携行し片耳で色々な番組を楽しんで歩いていました。番組は色々と楽しい企画を考えて頂くのですが毎週同じような番組に段々と飽きてしまった。オークションで中古のアイポッドを求め息子に使い方を教えて貰って色々な音楽を収め今楽しみながら散歩をしています。

どんな音楽を聴いているかは秘密です。歩くのですから手拍子が出そうな、歩くに都合の良いリズム、気持ちも明るくなる音楽、を聞いて楽しんでいます。ステレオと同じ音響が小さなイヤフォンから響き渡り臨場感を得られます。特に今、凝っている歌手に由岐さおりさんと安田姉妹のアノきれいで透き通った声に惚れています。「あのぉねっとぉ言えーば、何〜んだい?っと応える・・・」こんな歌を聴いて毎日歩いています。楽しそうでしょ。
■2/21        なな月参り   
なな月参りの日、いつもの方々がお詣りにお越しになった。お勤めが終わり法話の途中、高野山時代の隣室の方のお母様がお亡くなりなり葬儀を上げるとの事で急遽茨城へ行く事となる。諸般の事情で葬儀は少し後となる。

法話が終わり本堂を出ようとすると「和尚さん、これを見て下さい」とご持参された書面を渡された。内容は一日に行なう理想的な行動を数字に表して励むように記した書面であった。一日に100回笑うとか1万歩歩くとかの内容でした。実はこの方からこの数値のお話を伺い感心してここのhpにも載せた事がありました。現実には私も毎日とは行きませんが一万歩以上歩いており体重も徐々に減ってきました。その記述の中で、一日に10回他人を褒める、1回自分を褒める、、、なかなか褒めるというか認める事は難しいですが心掛けております。

夕刻、小学校の同級生が葬儀のついでにご夫婦で尋ねてきてくれた。『しらみ』と言うのが彼のニックネームであった。別に他意がある訳でもなく「白○」君のシロがシラミになっただけのことであった。小学校の頃、わんぱくであった私は彼に授業中色々とチョッカイをかけた事があった。私が後ろ向きになり「しらみ、アデンってどーこーだ?地図を見て探せ」と言うと彼は一生懸命で探し、暫くすると私の背中を突っつく。「わからん」っと応えるとニッコリ笑って「ここだよ」っと先生に背を向け世界地図を広げて教えていた。その瞬間突如として金切り声と共に「廊下に立っていろ!」と爆弾が炸裂した。何度も経験したその相棒が、シラミであり彼が奥さんを伴い尋ねてきてくれた。

奥さんにその話しを教えると「だからお父さんは首都の名前を沢山知っているんだ」と感心された。『奥さん、それは私のおかげだよ』と言うと大笑いをして昔のシラミの面影が蘇ってきた。『オレはあちこちを転々として二十歳で勤めた会社で頑張ったよ。そしたら今から7年ほど前に「お前オレの会社跡を嗣いでくれ」って言われて今じゃ50人の会社の社長をしている』そして『家も二軒も持てるようになった。』としみじみと過ぎ去りし日々を振り返り思い出しながら私に語ってくれた。小学生の頃の私の話しが出ると毎度の事ながら腕白だった事がばれて、忘れていた事も思い出させてくれた。

でも私とシラミは優しかったんだろう、肥だめに落ちて以来クラスの女子のイジメの対象となった○木○恵さんの事になると「かわいそうだった」とお互いがシンミリしてしまう。私自身の記憶はその容赦ないイジメのボス的中心女子生徒2名に「オイ、可愛そうじゃないか」「もう止めろよ!」と言った覚えがあった。私はすでに相当のお節介やきで授業中にたたき出された友人を救出に校庭に出て行って自分まで叩き出された事が数度となくあった。男性の先生に仲介を頼み給食までには教室へ帰る事が出来た。教室から叩き出された友人がいたら私が説教して教室に連れ戻すつもりが、自分がその後どうなるかも考えもせずに何度か先生に叩き出された事をハッキリと覚えている。叩き出されると何時も学校の大玄関前、八つ手の茂みの中が私の隠れ家だった。それは大好きな神藤先生に見つけて貰い取りなしを得るための策略でもあったのだが・・・

私はシラミに、彼女への同情とイジメを止めるような行動や想いを彼には言わなかった。青木さん、彼女は何時も黙って耐えていたし学校も休まなかった。彼女の体に触ると臭いが付く、周りに近づくな汚れるぞ!、「○ーぉき○恵が肥溜めはまってシュラシュポポ!」可愛そうでいたたまれなかった。未だに彼女のジッと耐えていた姿が忘れる事が出来ない。ついこの間もその事を思い出していたら今日その悲しい思い出したくもない話しがお互いに出た。・・・・ 初恋めいたおませな話しやお互いの家庭での事情等を話し小学生に戻った二人は又の再会を約してお別れした。まぁまぁの一日を終える。

しかし子供って残酷だ。残酷さを奥深くに潜めて大人となって行くのだろうが・・・。論語や処世訓を頼りとして克己しては全き人となる事に人間として覚醒するのが一昔前の人生を送る若人の理想であったと私は想う。しかし覚醒しても人生をうまく渡る事とは別問題でもある。相撲道は心・技・体、精進を重ね勝負に全てを注ぎ勝っても負けても相手の気持ちを想い計らい奢らず腐らず淡々とした人物が本来の尊敬できる人物であるはずが、「ゴタゴタ言わず、勝負の世界は勝ちゃ良いんだよ」は私のあまり好む姿ではない。置筆
■2/19        
昼過ぎ、○○市○史編纂委員の方からの電話が突然なった。私の父もこの仕事を仰せつかり自分なりに亡くなる直前まで一生懸命にお手伝いをしていた。父の文化財調査の関係で東海三県下の図書館、史料館、大学、専門家の元を尋ねて色々と私も手伝った事があった。挙げ句は白バイに捕まって父の前で切符を切られた事もあった。国会図書館、内閣公文書館、東大史料?編纂所、伊勢神宮の神宮文庫、今日名古屋で脚光を浴びている以前の、尾張藩の史料が揃っている蓬左文庫等々、、散々史料の収集や書き写し等を手伝った事があった。丁度横井さんや小野田さんがグアム島やルバング島から旧日本軍兵士として帰ってきた頃であった。

父は晴耕雨読を地で行く毎日であり執筆した書物には史料紹介と解釈に重きに置き、自分の意見や考えをなるべく少なくしての、言い換えればあまり読んでも面白くない史料羅列文章であった。私は亡父の遺した著書を2度改訂して世に出した事があった。亡父のお陰で香川景樹の和歌や桶狭間山の地名発見等史料と絵図の精査や和歌の世界の裏側の残酷さも世に出てきた事を私は傍証できる。

話しは戻る。今日の編纂委員の方の電話の内容は「私は○○市の○○編纂委員のア○ノと言う者です。高徳院のきゅうり祭の内容を一応文章に起しましたので今から読みます。間違い等が有れば教えて下さい」と電話口で早口でパラパラと自筆の原稿を30秒ほど読まれて「間違いありませんか」?と尋ねられた。私は「そんな風で良いんじゃないですか?」と応えると「有り難うございました」で電話を切られた。

亡父は桶狭間古戦場で亡くなった今川義元の調査をしていた。今で言う尾張藩の国勢調査の書類や、東海道を往来する歌人の読んだ今川さんの歌、、、等々古戦場にあまり関心のない事柄まで精力的に調べ、行き詰って迷路に陥ると専門家の門をくぐり教えを請い、執筆した物を私に見せ、教えを請うた方へも自ら足を運んで調査を繰り返し、先述の白バイに捕縛された事もあった。

一度も足を運ばず、調査もせず、見たような聞いたような事柄を「○○市○史編纂委員」と公称し、電話口で自分の文章を聞かせて「間違いありませんか?」とは。大凡歴史を紐解き、在った事実に感動し謙虚にその事柄を書き連ね後世に引き継ぐ事こそ大切な作業といえる編纂委員、私はそんな本は一切信用しない。昔を思い出すと教育現場をリタイアした人達がその多くのメンバーであった事実も私は知っている。ああ痛ましきかな悲しいかなである。活字は後世に残り文責を調査される場合もある。電話してやんわり、カットをお願いしようか??誰もそんな本は求めて買う人も少ないので放置しておくか? それも無責任だな、住職さん!
■2/18        
昨夜は良く雨が降った。朝はなま暖かい。陽の昇る時間も段々と早まり春の訪れを肌で感じる。法事も幾つか有りとても忙しくしている。枕経へ出ようと境内に出ると本当に暖かい。これで2月かと思うほどの暖かさである。過ごしやすいのは過ごしやすいのだが・・良いのだろうか??

昨日昔からお詣りに来られる方より手紙を頂いた。包装紙の裏に鉛筆で以下の事が書かれていた。少し嬉しかったのですここに披露します。(原文の通り)

「高徳院住職殿へ
二月三日の節分には有りがとうございました。7名分のお守りでしてビックリ。まだお金 出してなく、今地蔵さまの前掛け作ってます。
大きな七福神もみごとでした。お寿司もおいしくいただきました。たくさんのお地蔵さま、中々作れませんけれど、2月15日の年金迄にはあるていど出来ます。心まち下さいますように。住職殿 かしこ」と言う文面。

さてさて先回の節分会の七福神がとても嬉しく思われたご感想を寄せて下さった事は大変嬉しいです。年金が15日に出て地蔵さまの前掛けを作るという話しや祈祷料をまだ収めていない事も何となく書いてある。この方の名前は知っているのだが顔と名前が一致しない。キッと会ったら「なんだ あんたか」と応えるような気がする。封筒もボロボロで便箋も包装紙の裏返しだが心がこもっていると書簡控えにバインドしてしまった。

立春が過ぎて日差しも暖かい。「春は名のみの・・・」と早春賦の歌の文句を思い出すがもう少し寒くても良いような気がする。手紙の暖かさを大切にして春を待ちたい。
■2/14        公職
昼過ぎ、私を電話口に呼んでの電話があった。電話を取ると町内の方からの電話であった。今からお邪魔する、お願いしたい事があるという。暫くすると担当の方がお見えになられた。何かと尋ねると民生委員をお願いしたいという旨の依頼の話しであった。亡父も生前は民生委員や保護司も勤めていたので懐かしい言葉の響きに亡父の顔が急に浮かんできた。

大変な仕事であり父や母の献身的な民生の活動を目の当たりにしてきた私にはとてもお受けする事は今の私として荷が多すぎると思い反面、お寺の住職として受けるべきでもあると躊躇し後日ご返事をすると回答をしてお帰り願った。折しも別の方からは今度は電話で保護司の依頼があった。保護司に民生委員、、、どれもこれも大変な事柄。

実は亡父が自分の病気の重篤さを知った時、病床から私に民生委員や多くの公職を辞する旨の書面を何通か作り『お前、これから市役所へ行って文化財も民生も全部都合により辞する辞表を持って提出をしてきて欲しい』と言われ私はあちこちの窓口を巡った事を覚えている。突然の私の来訪に亡父の真意を測りかねたのか、「翻意かたがた見舞いに伺いたい」、「後任を決めて欲しい等」の依頼があり一々、亡父の指示を役所等へ伝え亡父から後任候補の方々を数名推挙させて頂いた後、5月半ば過ぎに他界してしまった。

それから27年経って、亡父の後任をお願いした方からの保護司の依頼を受けさせて頂いた。私も父の運転手で時々、拘置所や裁判所、刑務所へ父を連れて出掛けた事があったが今度は、自分がその番となってきた。歳月の過ぎ行きた感を新たにする。
■2/13        古道具やさんからの電話
朝、飛騨の古道具屋さんから電話が入った。「住職、探していたクドが出てきました」という内容。クドと言ってもご存じがない方が多いでしょう。昔の家に中にあってたきぎを使って火をくべる土でできた物をクドと言います。火を焚くので煙りもススも出て家の中で使うには大変厄介な物です。

亡父が他界するまでのお寺は風呂は薪でした。台所はガスとなっていましたが、未だにクドはあります。クドを壊す時は神無月に壊すという事です。クドの神様も一年に一回出雲の国へ出掛けていてその留守にお詣りをして壊すという事を母から聞いた。それを言われると恐がりの私は未だに壊す事が出来ないままにお寺の台所にドッカリと座っている。

そんな私が探していたクドは屋外で利用できるクドであった。これは境内に置いて薪を使いお湯やお茶を沸かして参詣の方々に飲んで頂きたいとの気持ちで探していた。ガスコンロを置いてお茶を沸かした方が綺麗で簡単に済むのだが・・・クドに火くべてお湯を湧かし煙の臭いをご馳走にお茶を飲んで頂く私の風流・・・・長続きするだろうか??このクドは昭和の戦後まもなく作られ長い間倉庫に眠っていた物であると言う。見れば金具類は既に錆びてはいるがシッカリしている。耐火煉瓦は綺麗で未使用というのがよく分かる。私も青年期までは風呂焚きも煙突掃除も何でもかんでもしてきたので、久し振りに眺めるクドの様子に懐かしさを覚える。

近い内にお寺のトラックで引取りに出掛ける。火の口数は二口ありお湯とお茶が沸く筈だ。薪にするのか練炭にするのか?今から想いが馳せる。枝垂れ桜を眺めて境内の染井吉野の側にはお湯がシュンシュン沸く・・・花見の団子を頂く。夢遊病者のような事を書いているが、懐かしくも穏やかな風景ではなかろうか??


■2/11        暖かい一日
ここ数日お寺を空けていた。「住職さん、ここんところ備忘録更新していないね」と言われてしまった。実は世話人会の皆さんとで「雪祭りとオホーツク流氷見物」のツアーに出掛けてきたのでした。毎回、当寺の世話人さん達の楽しみにしている懇親旅行は今年は北海道でした。

出発する時も帰る時も、雪に伴う悪天候のために飛行場は閉鎖が危惧されギリギリの離発着で辛くも帰る事が出来ました。後は幸運に恵まれて懇親が深まる楽しい旅行が出来ました。「次回は住職さん、ハウステンボスだね」と雪祭り会場での長崎県観光キャンペーンで手渡されたチラシを見て早くも次回の旅行の話しが出るくらいに盛り上がった旅行でした。

当寺の世話人会の方々は遊んでばかりではありません。初詣、星祭り、春彼岸会、きゅうり祭、施餓鬼会、秋彼岸会、お砂踏み、除夜の鐘、そして毎月2回のボランティアでお寺の中の重要な仕事を担って頂いているのです。楽な仕事ではないのです。そして暑い時も寒い時も不平不満の一言も聞かないで親身にお寺の手伝いをして下さいます。

自慢ではないですがメンバーの人達は「こんな楽しい老後が待っているなんて」と私に告げ、皆さん旅行に自費で参加して、見知らぬ同士が大変仲の良い関係となって、一丸となってお寺の行事に取り組んで頂いているのです。私住職は大変に幸せであり、参加する皆さんの気持ちと意欲が盛んになるようにお付き合いをさせて頂いているのです。

写真をアップしますのでご覧下さい。(ここだけのお話ですが雪と寒さに疲れました)
−14度 寒いの一言
オホーツクの流氷見学
霧のない摩周湖
楽しい大宴会(総勢24名)
阿寒湖上で「はぁーー」白い息 氷を切る体験
花火大会が湖上でありました。
起きたら前は阿寒湖 おはよー、皆さん朝早いです
旧道庁前の雪だるま パチリ
何でお猿がいるのか?分かりません
まぁ 色々います
氷の建物 大きなタコの足(一本千円)
■2/6        七福神でなく八福神??
午後より色々な方がお越しになられて様々なお話をうかがった。

夕刻より何時もの散歩に出かけた。色々歩きながら先日の豆まきの事を思い出していた。お参り大好き先生こと「○○外科」の先生の事をふっと思い出した。

私の誕生会をしてくれているテーブルに「住職、患者さんから七福神の豆まきの事聞いたけど僕も行くわ。何時から?」と電話があった。酔っ払って気分も少し大きくなっていた。「先生、11時からご祈祷で、七福神豆まきはその後だよ」と返事した。「ご祈祷を受けないとご利益無いな〜」と言うので「そんじゃ、途中で診察止めておいでよ、たまにゃ良いでしょう」と酔って奨めた。「途中で止めてか、なるべく早く行くわ」と先生の返事。

当日先生の事を私なりに気にしていたら、11時頃に先生と寺の客殿で鉢合わせをした。「あれ、先生診察は?」と尋ねると「あんた、こいと言ったでしょ」と真顔で私に言う。「ええ?先生本当に来たの?」と驚くと、にこりと笑って「そうよ」と老先生は笑う。勝手知ったる寺の中を好きに過ごしていた。豆まき後、七福神との記念撮影をしていると先生もパチリぱちりと写真を写す。先生自身もその中に入って記念の写真も数枚撮られた。

夜風をほほに受けて夜道の散歩、その事をふと思い出した。そう言えば今月の月参りの日は、事の前後を考えると、私がお参りに参上する事が良いし感想も伺いたい。が、しかし良く考えるとその日は私がお寺の不在日で先生の家に伺う事が出来ない日である。 先生に申し訳なく急に思えてきた。先生に電話すると「明るく良いですよ、他の方でも・・・」と返事。「診察途中で出てこい」と私は言った事をお話して一日早めのお参りを提案した。

先生は「15日他の方でも良いです。本当はおっさんだけど」嬉しくなる電話の声。しかし本当の電話の内容は違った所にあった。「あのねえ、おっさん。この間の僕と撮った七福神の写真。覚えている??」と先生。「えぇ、覚えていますよ。先生と一緒に撮ったじゃないですか」と返事をすると「あの写真、家の従業員(多分患者も)に見せたところ『あれ八人いる、七福神じゃない』と言うんだよ」と先生の言葉。

何を言っているんだと考えふと頭に浮かんだ事。ひょっとして写真の先生と七福神、、、が、八福神??? あれ、私がその八番目の福神??そんなに私の顔は大きくないしお腹もアレほどは出ていない。「みんな、『なんだ、こりゃ住職だよ』と言っていたよ」と笑いながら先生は電話口で私にその事を告げて電話を置かれた。写真の中の私はその雰囲気の中に確実に溶け込み気がつけば「住職だった」と言う一席の笑い話をしてくださった。

春の宵、立春のおもむきを感じる風情の中、お参り大好き先生の明るい声はどれほど私の気持を明るくさせて下さったか本当に感謝する。しかしこの散歩は「布袋さんのような体を元に戻す運動」と位置づけている。体型だけは布袋大黒にはならないよう、気持ちだけは恵比寿でいつもいたいものです。

先生もいつまでも元気で地元のホームドクターでいて欲しいです。しかし不在から帰ってきて私の机に置かれた写真、お寺の皆はどの様な感想を述べられるか?? 見たくも有り見たくも無し、と言う「き・も・ち」です。
■2/5        後かたづけと高野山参詣
朝から豆まき舞台の撤去作業。私はお祭りの片づけを住職代理と二人で行なう。来客等がありなかなか出られなかったが2時頃より車を走らせて高野山へ参詣する。

5時半頃高野山到着。沐浴後、奥の院にて参詣をする。誰も居ないと思っていたらお一人奥の院廟前に座して般若心経を延々と読経されておられる方がお見えであった。密厳院懺悔文、理趣経、諸真言と読経を済ませる。コートを着ると暖かさの感覚が体に戻ってきた。とは言え気温は+1度。普段より暖かい。色々と想いを重ね反省を深め、決心を新たにしてお寺に帰る。
■2/3        星祭り・・・・賑やかな大祭であった
今日はたくさんの参詣と賑やかな豆まきが出来ました。何も無かったと言われれば多少の出来事もあったが最初にしては大いに賑わい大成功と言えると思う。

色々な会場や受付けの段取り等改良の余地はいっぱいあるが何とかなる改良点だと思う。ともかくお世話人さんのお手伝いと好天に恵まれて穏やかに一日を終える。午後より葬儀もあり他の僧侶はそちらの方に出掛けてしまったが大勢の力で直ぐに現況に戻った。

反省会で色々と来年に向かってのご意見も出た。なるほどと頷きながら一同来年を期す事とした。本日の様子をアップしますのでご覧下さい。
本堂での風景
御札の授受の場所
可愛いでしょう、大黒さん・・・
にこやかにご挨拶
恵方巻きを頂く参詣の方々
今年から配られた七福神福笹
■2/2        星祭り準備
朝より枝垂桜の植樹の引き続き工事。

明日迫った星祭の準備も相当出来上がった。明日は天気もよさそうである。何事もなく済めば有難い。事故さえなければ本当に有難い。
■2/1        枝垂れ桜移植完了・星祭り世話人会打合せ
朝より枝垂桜の植樹の続きが始まり夕刻まで続いた。結局時間切れで明日再度工事をするとの事であった。
立派に移植された枝垂桜の比較的大きな木は両側にどっかりと納まり春の花盛りが待ち遠しい。
時折様子を見に行く私はその作業の大変さと共に職人さんたちの桜へ対する愛情の込め方はたいした物でした。農園主の会長さん、数年前から親しくなった方であるが「嫁に行った先で幸せになってもらうのが一番、行った先でふさわしい木になる」と言って頂いた。大切にこの木々をして行きたい。来年再来年の予定で更に眼を付けている枝垂桜の移植を続ける事を相談する。根の状態や木の様子を愛情込めてお話される会長さん。

午後二時より星祭世話人会会議を行う。多くの意見が出てより良いお祭りの方向性が出てくる。良い案が幾つも出ると決定しなくてはならない私は困る。幸せな困り後と。皆さん本当にお寺の事を親身になって思ってくださる気持ちがとても嬉しい。境内に出たりお寺の建物の有効な利用を考えてくださる姿を見ると本当に住職冥利に尽きます。話も盛り上がって少し疲れると「住職、山門の桜・・・楽しみだな」と言われる。はっと我に帰り桜の工事を思い出す。
2月3日の相当の相談を済ませて夕刻5時過ぎに散会する。

冷え込んだ夕刻、桜の作業されている社長さんが「明日も来ます。立派になりましたわ」と私を門に誘うので門前まで出ると門灯のサーチライトに照らし出された一双の枝垂桜。凛々しくも雄々しい桜に変身を遂げていた。
ホカホカの農園の土からお寺の山門脇の土手に確りと屹立した桜は頼もしくもここで生きて行く決意のような物が私の気持ちに伝わってきた。私もこの桜を含め山中の木々を大切にする気持ちにもなってきた。

来年か再来年来る枝垂桜のよき先輩になるよう、また春になれば多くの方々の眼を喜ばせる桜となって欲しい。