住職備忘録
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2002〜2009
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名古屋の天気予報
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平成25年11月分

非営利斎場「六波羅蜜会堂」の動画です
 ご覧下さい

カウンター

当寺のご近所でケアtaxを為されておられます。ご紹介を申し上げます
CareTaxiれんげ

■11/28 晴れ       東京へ                   
数日、お寺を空けて東京へ所用を済ませて少しだけ遊んできました。今月は多忙であり体にも気にも少し休みを与えようと東京庭園巡りをしてきました。詳しくはないのですが新宿御苑、椿山荘、六義園と徒歩で一日足を棒にして歩き回りました。天気にも恵まれダウンジャケットとスマホのナビを利用して上手く、とても爽快に都内を歩き回りました。さすがに、帰りはJRを利用しましたが名古屋の私鉄で利用できるカードがJRでも利用でき、本当に釣り銭を探したり、チャラチャラお金を出さずに電車に乗れてこれまた、最高でした。
25日 夜は駒形の「どぜう鍋」です。地下鉄路線を知らないので新宿から遠回りしてたどり着きました。
26日 朝の新宿御苑・・・信州高遠藩 内藤家の屋敷跡だそうです
イチョウがきれいでした
イチョウの下のベンチ。 なとなくロマンティックです。
日本庭園・・・・江戸時代には上屋敷、中屋敷、下屋敷を諸藩は江戸に設け
参勤交代で江戸に下る勤番侍のための屋敷もあったそうです。諸藩は相当の経済負担があり
徳川将軍家も江戸を消費と繁栄の地の目指していたのでしょうね。
幼稚園の子供達が日だまりで遊んでいました
一服に腰掛けたベンチ。鈴掛の並木道・・・空を見上げると
新宿御苑を出て一路、六義園へ向かいました。スマホのナビ通りに行くと
2時間弱でホテル「椿山荘」へ出ました。ホテル内の庭です。
長州藩出の山縣有朋の屋敷でもあったと。東京には大名屋敷跡に
色々なビルが建っていますね。尾張徳川藩屋敷跡には防衛庁とかを聞いた事がありました。
尾張徳川藩は湯島聖堂も建立させられ、神田川の堤は諸藩が幕府に命じられたとか。
タヌキ? タヌキ・・・そう言えばこの間、高徳院の廊下をタヌキが歩いていたという。
「オィ」と言ったら振り向いて、大玄関の子タヌキと共に出て行ったと・・・つい先日の話を思い出しました。
椿山荘にてコーヒー・・・・・「た・か・い」
椿山荘を出て、やっとの事、六義園へ
柳沢吉保は、聖武天皇が初めて海を見た「和歌浦」をモチーフに
この庭園を作庭した・・・この川は紀ノ川に繋がる吉野川と観光ボランティアの方の説明
和歌浦のイメージの島という
紅葉が美しかったです
さて、1000m程先に旧古河庭園へ向かいましたが・・・さすがに疲れました。と、その時銭湯がありました。
歩くのは止めて銭湯に入りました。冷えた体に、銭湯の湯は極楽でした。
銭湯出てから・・ポカリスゥエット。 向こうの看板が銭湯「亀の湯」
JRに乗って新宿へ舞い戻り一人の宴が始まりました。
サザエのお刺身と
マグロとウニの一盛り・・・新宿の夜は続きがあります。
新宿 末広亭前の古めかしいバー。一杯400円のサントリー「角」をチビリと一舐めして
寄席・・新宿末広亭へ・・・コント青年団に大爆笑して宿に帰りました
翌日は代々木公園を眺めている内にお寺から電話が入り
お八つの頃にはお寺に戻っていました。足が棒になりましたね。でもとても面白かったです。
■11/24 晴れ                    
本日も予定の多い1日にでした。日沈までの一時、散歩に出かけました。毎夜のコースを眺めると池の畔や並木道は紅葉が夕日に輝き秋も深まる晩秋の街の風景を楽しみました。散歩の折りも、車中でも、机の上も、見る物、読む物、集める物、昨年から幕末から近代の歴史に深く興味を持って司馬遼太郎氏の作品に心を傾けております。今は携帯電話の中にも司馬遼太郎氏講演CDが12枚ほど録音して時間があるとイヤフォンで拝聴をしております。本も雑誌もタイトルに幕末や坂本龍馬、高杉晋作、日露戦争、小村寿太郎、東郷平八郎・・・まるで私が中学少年のように興味を寄せております。元々は司馬遼太郎氏作「空海の風景」を繰り返し繰り返し何度と無く読んだ事に寄る司馬遼太郎氏が考察する物の考え方に興味を覚えた、私の20歳代の経験が未だに鮮明に私の心に炎のように関心を寄せさすのです。

つい先日までは「坂の上の雲」「龍馬伝」のテレビDVDを夜遅くまで見ていました。先ほどまでもDVDを眺めていました。龍馬が紀州藩士に狙われ始めましたので悲劇の場面が近づきつつあります。余談ですが坂本龍馬は明治になってもそれ程に有名人ではなかったそうです。彼が明治になって世に名前が出たのは勝海舟が龍馬を話された事で世間から脚光を浴びる存在となったと読んだ事があります。何れにせよ歴史が大きく動く時、同時代には各界各方面から異能な人々が同時多発で出てくる物ですね。戦国時代でもたくさんおられる。江戸中期に自然科学に興味を持たれた学者が出たり、「子曰く・・」と聞くけれど「そりゃ 変だぞ」と観念的な学問から自然科学やリアリズムに多くの学者が日本に出現されました。

物の本質を科学された方に大分県国東半島「三浦梅園」氏の本も観念論の世界からの抜け出てきて「自然科学」・・自然の中から法則を取り出す試みを行い科学を深められた方もおみでした。米は味噌にも、醤油にも、酢にもなるが本質は「米」 発酵や醸造、色々な物を目から感じて頭で創造と整理を為してキチンと整理を為して結論を導き出す・・・・この国の国民性がもつ好奇心や向上心が聖徳太子の頃から今の現在まで、遺伝のように日本人には染み付いている国民であると思います。シャワートイレも自動販売機も駅の改札も街の清潔さも、恐らく世界一だと思います。そんな事を思いながら毎日を興味深く過ごしております。
■11/18 晴れ        四国 よりとんぼ帰り            
昨日葬儀の後四国へ出かけましたが、思わぬ出来事がお寺に発生したを事を告げる電話が鳴りました。一人運転する車は既に鳴門大橋を過ぎて徳島市内への国道に差し掛かっていました。午後5時頃でした。あたりは暗くなり引き返すにも事故の危険性や疲労を思うと予定の徳島市内に宿泊し、全ての用件を後日に延ばす事を決心して今日のお昼過ぎに帰寺しました。未明には再びお葬儀の電話が鳴り本当に気の休まる時がありませんが・・・今回の思わぬ出来事は私の賞味が切れた事を示すような内容でした。午後3時には何事もなく一日を終えられる安堵とお寺の職員さんへの感謝の気持ちで一杯です。日も短くなった境内では掃除に精を出す人、屋根の上で期日に追われる有名な堂宮大工さん、葬儀社の人、僧侶に職員の人、私の家族と皆さんよく働いて下さります。感謝の一文字です。色々ありますが健康に気を付けます。

『損得に 心が向いていると 他人の働きの 尊さが 見えない』・・・本当です。私も一生懸命に応援をします。

職人さん、本当にご苦労さまです。建設会社の方へも感謝です。
先師さんのご苦労を示す下地材
私も簡単に考えていましたが銅板葺きは瓦葺きとは工事の内容が全く違います。
下地の良さ悪さが、銅板葺きの仕上がりに大変影響する事がよく分かりました
■11/13 晴れ        四国 薬王寺様へ ご挨拶            
昨日、午後過ぎに薬王寺様へご挨拶にとお寺を出立し、夕刻8時頃に徳島県に到着しました。今朝7時にホテルを出発して10時頃四国日和佐の薬王寺様へご挨拶に伺いました。薬王寺様も山門を今年全面修復し、この秋口からは瑜祇塔の耐震工事を開始され私がおじゃました時は大規模な工事を為されておられました。親しくご住職様とお離しをして頂き、本山や地元のこと、世間話に話が弾みました。工事を為さっていることを全く知らずに伺ったので汗顔の思いでした。近いうちに再度、薬王寺様へご挨拶に伺いたい一心です。薬王寺様の図面をお借りできたことが高徳院の幸いであり今日があると思います。明日は葬儀があるし他の予定もありますから午後にでももう一度と思っています。来週は予定が多いはずですので・・・
参道を上り詰めてビックリしました
全ての資材が大型クレーンと建設用モノレールで運ばれていました
耐震工事は、今私ども高徳院も本堂耐震工事をしておりますが大変です。
既存の建物に気を遣いながらの工事は通常より割高になってしまいます。
■11/12 晴れ        瑜祇塔 案内映像の試作             
広告代理店から瑜祇塔 案内映像の試作素案が出来てきました。マイクロソフトのメディアプレーがーがあれば15秒の映像をごらんになれます。宜しく願います。(注意!! 音楽が鳴ります)

■11/11 晴れ        窮鳥、懐に入らずんば・・・・・              
昨日のことでした。午後からの予定も終わり永代供養受付でもある六波羅蜜会堂に所用で立ち寄って行く時のことでした。玄関先で受付の者が自動ドアから飛び出てきてしゃがんでいました。『どうしたの?』っと尋ねると『いま、野鳥が勢いよく自動ドアにぶつかった』と言うのです。辺りを見ると白い羽が飛び散りグッタリとした鳥が息も絶え絶えに手のひらの上で休んでいました。『水を少し飲ませたら』っと受付に言うと紙コップに早速汲んで水を飲ませました。鳥はパチリと黒い目を開けて正気付きましたが、グッタリしています。私はこの手の出来事を子供の頃から何度も経験をしていますので「まぁ、仕方ないかな」っと思っていました。

同所内にて所用を済ませ、来訪の人達とも色々とお話をしていて一時間も過ぎた頃、不思議に鳥は段々と体力が戻ってきたように思えましたが矢張り、自分で立ったり羽ばたいたりは全くしません。『住職、どうしたら良い?』と少し困った事を質問されました。実は以前、高徳院山中にて『コノハズク』が弱って私が介抱をしたことがありました。コノハズクなのかフクロウなのか?見分けは付きませんでしたが市役所に伝えると「見に来ただけ」で帰って行かれました。目はオレンジ色でジタバタする気配も全然無く口も開かずに首を360度クルリと回して鋭い眼差しをしていました。その頃、お寺には私よりも15歳ほど年長で、途中から僧侶になった方がお見えで「如何なモノか」と尋ねると「俺は力(りき)が出ない時は『リポビタン』を飲むんだ。一度飲ませてみ」と返事をされました。「ドリンク?リポビタン??」と言われ半信半疑でリポビタンを買ってきて、半分ほどに薄めてコノハズクに飲ませると翌日は大変元気になり数日したら飛んで何処かへ行ってしまいました。その間、珍しいとテレビ局が来て夕方のニュースに「コノハズクのお寺」として放映された思い出があります。彼方此方で今でもたまに言われることがあります。

受付の人はお菓子の箱に『窮鳥』を入れて大切にお寺の暖かいところに置いて「私ドリンク買ってくる」と私に告げました。「おぃ、買ってくるなら炭酸抜きのドリンクだよ」と注意をしました。昨晩、半分に薄めたドリンクを飲んだ『窮鳥』は飲んだ途端、パチッと目を輝かせ生き生きとしたそうです。そして今朝「住職、『窮鳥』はこんなに元気なった」と私に見せてくれた写真が下の写真です。撮影場所はお寺の台所。写している最中、急に飛び出して台所を飛んで再びガラスに正面衝突しました。さすがにダメかと思いましたが再び受付の手の上に載り目をぱちくりしていました。「もう、早く逃がしておやり」と私が放鳥を勧め、午前9時半頃お寺の境内から薄日差す本堂の向こうの竹藪に飛んでいきました。一同「良かった 良かった」で爽やかな一日を始めることが出来ました。樹上の上で卵からかえって、親が運んだ青虫を食べ、思い切って空に飛び出し、縁あってお寺で人の手の介抱を受け再び空へ還った「窮鳥」に幸いあれですな。
ツグミ? 寺務所にて
二度目の正面衝突 寸前の 窮鳥
この後、すぐに空高く飛んでいったそうな・・・終わり
■11/08 晴れ        瑜祇塔金亀の鋳込みと評議委員会・責任役員会              
富山県高岡市へ瑜祇塔金亀の鋳込みに行って参りました。夜は責任役員会、評議委員会と続き2時間半に及ぶ会議がありました。何だか毎日、飛ぶように過ぎていきます。平成23年5月、瑜祇塔建設を決心した時から加速度が増すようにのんびりとした時を過ごすことが少なくなりました。お寺はゆっくりと過ぎる所でもありますが、間違いのない毎日を過ごすには細心の注意と、ある程度の予見性を図りながらの毎日を過ごすと、するべき事柄が多く、あっという間の毎日です。
この中に88枚の銅硬貨が入っています
高炉の中に投入します。 高炉の中は1200℃ とても高温です。
奈良の大仏殿も同じように作られたのですが・・・1200℃
鋳込みの壺に入れます
金型に入れます
鋳込みの瞬間です
一分足らずの鋳込みですが・・・永代の金亀誕生
三度目の鋳込みです
1回は 梵鐘の鋳込み
2回目は 相輪の鋳込み
3回目は 今回の金亀

4回目は 本堂芳金金物 来月12月予定
組み立てられた金亀
実寸の原型に着色した金亀
■11/03        御砂踏み浄衣加持              
今年で26年目の御砂踏みです。雨にも降られずにやれやれでした。準備片づけ・・・多くの人のお手伝いで終えることが出来ました。感謝の一言です。
御砂踏みの会場入り口
短い私のお話
白玉の作成中