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■5/26 藤田保健衛生大学の火葬法要
午後より慰霊祭をお勤めする。この法要を始めて幾年になるのだろうか?創立者藤田先生も父も健在の頃よりの法要だ。昭和47年以降毎年お寺でこのお勤めはされてきて途中から医学部一号館で開催されるようになった。第一回目の慰霊法要は教職員一同境内を掃き清め前々日よりお寺を医学部の学生が磨き上げてご遺族をお迎えした。緊張と後に戻れないと言う緊迫感が境内本堂に満ちあふれていたのを昨日のように思い出す。

学園も大変だった頃、昭和48年頃であったか、火葬法要を2回、慰霊法要を1回年間通じて3度も立派にお勤めをされていた。当時は医学部が乱立された頃であり、ご遺体の数が極端に不足気味で満足な実習を出来ないでいた大学が沢山あった中、苦しいとは言え多くのご遺体がご遺志を反映されて大学に集われた。他の大学ではご遺体のやり繰りで週刊誌に載るほどにまでなり世情を賑わせた。藤田学園には不思議にご遺体が多く、本来なら一回の解剖実習が何と3回も後年は出来るほどにカリキュラムが組めるほどになった。当の学生諸君は大変だったと思う。実習が始ると本当に深夜までスケッチやレポートを書かなくてはならなく早朝より授業でクタクタなのに、三度も行え得る事は、創立者の強い意志が末端までに行き渡っていたと思う。
現今、慰霊祭は諸事情で年一回のお勤めとなり今日を迎えた。始める事は、新たなる事を草創する事であり強い意志が働く。しかしその事を、色々な目で判断し批評する事は誰にでも出来る事であり、止める事は容易い事でもある。復活させるにはモットたくさんの労力と熱意と根気が必要となる。しんどい事でもある。


■5/21 晴れ なな月参りの日
たくさんのお参りがあった。気持ちの良い天候のせいか心も軽くなる。助法の僧侶から「住職さん、台風一過ですね、とても良き季節です」と言われた。私は「そうだね、人の心も台風みたいなのがあって一過したら清々しい気持ちになれると良いね」と感想を言ってしまった。新しくできた葬儀場は未だに何方も使われない。宣伝も不足しているしまだオープンして3週間。ご不幸が繁忙では悲しいのだが私に付いてきて葬儀社を辞めてきた二人に申し訳ないような気がする。檀家さんは亡くなるのだが知らずに他の葬儀場で葬儀をされて後から人に言われて気が付き、お互いに気まずい思いもしている。
葬儀場の周知を図り多くの方の一助になれるように心がける事とする。這えば立て、立てば話せよ我が子かな・・・ではないが・・・それにしても辛い。。。


■5/18 曇り
午前午後と来客が多い。忙しい時にはややこしい事も起りやすい。人事で頭を悩ませる。
昨日、愛知葬祭金森会長さんを善通寺にご案内する。私は日帰りであったが会長さんはお参りを続ける。これで十数年の毎年四国を巡礼されている。仕事が生き甲斐の方で唯一、四国遍路が清遊と言えば清遊か。夜遅く帰寺する。


■5/14 本当に五月晴れの気持ちの良い日
友人がエクシブ蓼科へ行かれておみやげを頂いた。お墓もありお骨もお預かりしてご供養もさせて頂いている彼がもうじきお爺さんになる。実は私と同級生で仲良くさせて頂いている。奥様とも夫婦仲は良くて何時もお互いに気を遣いながらの光景にほほえましく思う。
夫婦仲の良いのはとても気持ちの良い物だ。当然家族の仲も頗る良く新たにお嫁来た娘さんも大変幸せだと思う。現代っ子のお嫁さんだが、何を言う自分たちも現代っ子で気が付いたら50を過ぎる親父になっている。彼はもう少しでお爺さんとなる。
息子は大変元気が良かったらしく彼からだいぶ武勇伝を聞いたのだが子供が出来たとたんに、見事に大人になった。これには私もビックリしたが当の親もビックリしていた。
「孫が出来たら子守するんか?」っと私が尋ねると「近所の年の変わらない人が乳母車を引いている姿を見るとイヤになるのでボクはしない」っと言うけれどホントかな??
私が廊下を指さして「あそこからヨチヨチ歩きの子供が走って膝の上に載ったらもうめろめろになるな」っと言うと目を細めていた。私は何時その様な日が来るのだろうか??楽しみです。


■5/13 一生懸命に働く姿はきれいだ
と有る所で一泊させて頂いた。そこの若奥様は大変立派な方であった。何よりも控えめでありながらご自身の夫を心から支えて健気なまでに尽くされている姿に感銘を受けた。真面目に働くとはあの方の事を指す言葉と改めて感心して帰寺した。
横着を決め込み、感情の赴くままに電話口で悪口雑言の悪態を付いて、最後に背負い投げを食らわされても己の非を認めようとするどころか、一方的に電話を切る人が居た。
人は生まれながらに口の中に斧を持って生まれるという。感情の赴くままにはき出した斧も自分に最後は降り懸かるという諺だ。自分も注意して毎日を送り、友人の奥様の健気さを見習う事とする。有り難い2日間であった。

■5/9 御正当の日(弘法大師様のご命日)
御大師様がお亡くなりになった日。旧暦の3月21日。当寺も御大師様の御入定(ごにゅうじょう「永遠の命を得て現在も精神的な存在となっている事(私の思い)」)されている場所、高野山奥の院に高徳院としての墓地も完成させて頂いたのでより一層に親しみがわく。

今日はもう一つの縁日、「母の日」であった。世のお父さん諸君!母の日を家庭内では「妻の日」と勘違いしている向きがあるように考える。私の家だけであろうか??

今朝も娘が「お父さん、今夜何処かへ食事に行こうか」。
私「何言っているんだ」
 「お父さん!今日って何の日だか知っている?母の日だよ」
「ふーーーん母の日ね」 
「昨日の晩、キッとお父さん知らないだろうねってお母さんと話をしていたんだよ」っと娘が言う。 
「そうだな、何処か行くのなら場所を決めておいて」
「ウン分った」
「でもな〜、お父さん、お金持っていないからな・・・」っと言うと
「こりゃダメだ」っと娘が笑っていた。
で、夕方になると件の娘から「お父さん何処行こう」って内線がかかってくる。適当に返事をしているといつもより早い時間に机の電話が鳴り「お父さん、ご飯出来たから早く来て!」っと不満気味の家内の声。「しまった」と思っていても時、既に遅しで食卓に着く。何となく後味の悪い御正当の夕餉。

しかし、よく考えたら母の日って私と家内の実母の日という事でお見舞いに出かけるのが通常と思う。未だにお会いした事のないネット上の友人ACAさんは毎年、嫁ぎ先と里のお母さまへプレゼントをもって行かれる。私も明日は両方の母親をお見舞いがてら顔を見せに行こう。改めて言おう、母の日は妻の日ではないと!!!。この日記を娘と家内が見ていない事を信じて。。。。。恐々


■5/6晴れ
五月晴れとはかく言うものかというような天気でありました。何する事もなく過ごす。と突然、弟から電話が入り「今、伊吹山のサービスエリアにいる。お婆さんの見舞いと親戚の弔問をしたい」と電話が入る。昼過ぎに来寺して色々な話を聞く。午後より弔問。夜は家内を交えて会食をする。
さてその後は再び、ブックマークされたお店へ繰り出した。以前にもこの備忘録に登場したお店。電話するとイルイル、いつものおじ様方が・・あぁ自分もおじさんだった。
初めはカウンターでウーロン茶を飲んでいるとここのママが弟に「住職、ウソみたいだね10年前と・・」と意味ありげにものを言う。「何が?」っと弟。「昔はガブガブお酒を飲んでいたのに、今じゃお茶ばかり」「へぇ〜信じられんな。何処かお前悪いのか??」と私に聞く。「イゃ、飲むと体が翌日エライからな」というと彼も成る程という顔でうなずく。
背中で店の扉が開く音がして振り返ると、これまた常連のお父さんが5人ご機嫌で入ってきた。マドンナがカウンターから席へ案内する。独りだけ知らない顔があった、が、私の事を「住職」とよぶ。誰か喋ったな!っと思うが笑顔で「はいはい」と応えると、握手をして私の手を離さない。
適当な所で切り上げて席に着き持ち歌「東京の灯よ何時までも(新川二郎)」を一曲歌うと皆さんが拍手をする。「お前の持ち歌だからな」っと弟が笑う。しばらくして今度は「岸壁の母」を少し替え歌で歌うとシンと聞き入りながらの大爆笑。まぁ良いか、今日は・・・

暫くして件の5人組の席に遊びに行くと知人の名前が出たり、仕事の役席の話を聞く。世間は狭いもの、みんなエライ様ばかりなんだ〜と感心していると側にマドンナが来て座ってくれた。
「今日の事はホームページに書こうかな」と言うと「私の事も書いてね」と優しく言う。「この間書いたよ、ハッキリしたマドンナと書いたよ」というと「私そんなにハッキリしているかな」と寂しそうな顔。そんな事はない。お客さんと言うより沢山のお父さんを可愛くあしらってくれるマドンナ。そうだ「目鼻立ちが」ハッキリしているマドンナだ。このマドンナさんは大変可愛いので人気もある。口数は少ないのに心遣いが有るのでこれが人気につながるのだろう。むかし「お父さん、預かります」と言う小料理屋さんの看板を見た事がある。キッとあのマドンナは、この小料理屋さんを始めると世のお父さんは足繁く通い、楽しく過ごす事が出来て繁盛するだろうが、当のマドンナはマドンナではいられなくて、「おかぁチャン」になるから、マドンナは嫌がるだろうな〜。
そんなこんなで10時30分頃帰宅した。肝心の弟の事は苦労で頭が真っ白になりかけている。聞けば聞くほど信じられない事ばかり。本人にも至らぬ点もあるだろうが・・・・

■5/3 晴れ・・・高野山奥の院にて墓地

 石屋さんから墓地の完成の報を受けて出来上がったお墓を見に行ってきた。西門院さんにはお邪魔できずに心残りで帰寺した。初めて出くわすゴールデンウイークの交通渋滞には並行の一文字。あの高野山の登山道路の途中から大渋滞。まぁ、高野山内に入ったらスイスイかと思いきやトンでもない、大渋滞で奥の院に着いたのは渋滞から2時間後の頃であり、ご挨拶どころか這々の体で帰宅ラッシュを避けての下山となった。

 私の思っていた墓地はお墓の岩室の上に十三重の石塔が乗るはずだったが本山の建墓規制により三b以上の高さ制限に抵触して断念せざるを得なかった。急遽間に合わせの石窟を被う石の屋根。

 一度に載せる事が出来ずに半分に割って載せた。軒が短くて私のイメージから少しはずれている。何時か機会が有れば手直しをする決心で帰山した。しかし奥の院の中心部分に建墓出来た事は先祖のお陰でありまた所縁の西門院様の快いご理解が在ればこそである。感謝をしなくてはならい。感謝してお寺へ帰る。











■5/1 寒い一日 快晴
 昨夜はお世話になっているお寺さん方々との親睦を深める会を催した。あっという間に時間が過ぎてしまい日頃の憂さも吹っ飛んでいってしまった。今年も半分が過ぎようとしている。
高野山から電話があり「奥の院のお墓の工事が終わった」との電話連絡が入った。 早速に日程を調整していると叔父が亡くなったとの連絡が入った。夕方弔問に出かけて事情を話し欠礼のお詫びをする。
高野山の奥の院はユネスコの世界遺産に6月頃登録される。文化庁や教育委員会の許認可を受け手の工事であり完成後は速やかに検査して業者との受け渡しが待っている。
時間のない中、高野山に出かけてきます。