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■11月27日 晴れ
過日指を怪我して入院していた方より元気な声で「退院しました、ご迷惑をおかけしました」と電話を頂いた。私もお見舞いに行こうと思っていた矢先のお電話で恐縮した。「痛いですかその後?」とお尋ねすると「うん、寝ているとズキズキ痛む」と遠慮がちに仰られた。あ〜ぁ申し訳ないと思う。
愛知葬祭の金森会長から電話があり久し振りに元気な声を聞いた。内容はプライベートな事であった。会長さんも色々と周りの事を心配されておられ改めて慈愛の方だと感じる。彼方此方に依頼の電話や応答を伝えて電話を切る。お大事になさって下さい。毎日慌ただしく過ごす。


■11月26日 晴/曇り
東京に所用で出かけて少し留守をしました。すこし相談事があり無理を言って私の相談に乗って頂きました。東京に着いたのは夕刻であり会食をしながらの運びとなり新橋で遅くまで時間を忘れて相談に乗って頂きました。久し振りの東京、特に新橋と言う界隈の変わり様は異常であり汐留という場所は以前あんな高層ビルなんて一つもなかった所であったので道を間違えそうになった。時も人も代り自分だけは変わっていないと思っていても毎朝自分の顔を眺めて「あ〜歳取った」っと最近つくづく思う。ただ今私は体が不調であり少し体を労らねばならないかも知れない。自分でそう感じる。

■11月22日 晴れ
ケガをされた方をお連れして病院で入院手続きをする。住職補佐と家内が同行して病院で受付を済ませた。幸い大学病院では厚遇され11時からの手術が出来た。桜の木をなぎ倒したドライバーの会社へ電話をする。当方の現況を説明すると夕刻お二人の方がお詫びに見えた。

午後、本坊瓦吹き替え工事後の雨漏りを指摘しても一ヶ月以上ホッタラカシにしていた会社へガツンと電話をした。副社長がお詫びに来られた。何で説明やお話に来ないんだ・・・・! アドレナリンが出過ぎた。。。


■11月21日 晴れ
多忙な一日であった。一昨日ケガをされた方の奥様が夕刻お見えになりお詫びに来られた。不注意でお寺にご迷惑をお掛けしたと言われる。恐縮してしまった。姪御さんの結婚式に出かけられ昨日の夕刻に初めて事態を知ったそうだ。眠る事も出来ず心配であったそうで本日急遽広島から予定を早めに切り上げてお越しになられた。
明日再手術をする事となり大学病院へ出かける事となり、当寺も住職補佐と家内がご夫婦に同行してお手伝いをさせて頂く。「気を遣いますから良いですよ、住職さん」と言われたが「気を遣うのは此方の方です」とともかくお詫びするしか方法がない。
未だに人の屋敷の桜の大木をなぎ倒した日本○○○ルからは一言の電話も何もない。運転手の捨てぜりふ、総務の誰々から電話があると思います、では・・・他人がしでかした事故の後始末をボランティアで片付けて上げて・・・何か一言お詫びがあっても良いではないかと「予期」が私の思い上がりなのだろう。しかし私ならスグに謝りに行く。頭が変になりそうだ


■11月20日 曇り
午前中檀務を済ませて、遅い昼食をとっていると、家内から電話があり「お寺の桜の大木が倒れて寺の前の道路半分を塞ぎ通行できな」と。驚いて見に行くと幹周り50a程の桜の木が根本からへし折れて、電話の通り道路を半分ふさいでいた。大型の荷物を積んだトラックが太い枝をなぎ倒して走り去ったとしか思えない状況であった。相当な勢いでそれ相応の車がぶつけなければ桜の木は容易くは根本から倒れない。ひどい状況であり誰かが倒した事は分るが、それにしても酷すぎる倒れ方であった。

急いで境内清掃の職員さんと片付け作業を開始した。何で他人がしでかした事を私たちが片付けにゃならんのかと腹立つと共に、ひっきりなしに往来する車を避けながらエンジンチェーンソーやノコギリ、なた等を使って大凡片づいた。その頃お巡りさんが来られて見知らぬ男の人と話をしている。

先ほどから私たちが片付けている様子を眺めている男である。何とその男は枝をなぎ倒したドライバーであった。なぎ倒した事は認めるのだが自分の会社名と自己氏名を名乗り「何か手伝う事はありませんか?」「もう行って良いですか?」っと私に尋ねる。

その後、警察官からも当事者の男からも「お宅の木にぶつかったので事故が起きた、通行する前の車が恐らくぶつけたのだろう」と言われた。「あんたらは目の前の大木が有りながら突っ込んできて事故が起きたと言うのか?」と言ってやろうかと思ったが、私は返事をしなかった。あとで禍根に残るような事は厳に慎み、代理人に任せる方が良いと判断して黙っていた。

そうこうしている内に、悲劇は始った。一生懸命木の枝を切っていた職員さんが何とチェーンソーで左親指を切ってしまった。近所の外科に受診をして大学病院への受診を勧められ、受診をした。靱帯断裂で手術をする事となり明日再度受診をして手術をするそうだ。段々と怒りがこみ上げて許せない気持ちになってきた。
その後のあと片づけは整然と進み散乱した跡形もなく元の道路に戻っている。私の気持ちは道路に散乱した桜の如くに整理がまだ付いていない。


■11月18日 雨(寒い)
午前中お参りを済ませた帰路、母の事が気になりお見舞いに出かけた。法衣姿で老人ホームを尋ねると一様に私の方を振り向く。事務所は私が毎年紙芝居と法話をするので顔見知りにはなって頂いている。三階の母を訪ねると車いすで他の方々と机に向っていた。「お婆さん 来たよ」っと声をかけると「ありがと」と返事をしてくれる。下のロビーでお話をしようと車椅子でロビーまで降りた。

「私はあんたが大好きだよ」っと母が言う。「有り難う 本当に有り難うね」っと答える。
「お母さん、何か飲もうか?」
「そうだね」
「ミルクで飲もうか?」・・・・・「美味しい?」 「とても美味しい モット」・・こんな具合でお話をする。
「お婆さん、あの時はえらかったね、二人で暑い中、本当に大変だったね」「うん えらかった」
「お婆さん、ボクが子供の時、夜中にお腹が痛いよっと言ったら『よっしゃ、待っとれよ』って言ってくれたね」
「・・・・・」 「食べなきゃ良いのに、前の晩のお寿司を食べたからお腹が痛かった」 「・・・・」
「雨の日に隣町の医者まで乳母車で乗せていってくれたね、ビニールに雨が当たり空が見えたよ」 「・・・・・・」 「あの時は辛かったね」 「・・・・・うん」
母は分っているみたいで分らないのか、ミルクを一口飲むと「美味しいね」っと言ってくれる。母と私にしか分らない苦労話をすると思い出したように「えらかった」っと言う。

そんな事を話していると顔見知りの方がお二人私の前に現れた。「住職さん、ここでお会いできるとは思いませんでした」という。何時もお世話になる県の嘱託さんである。彼らは11月で嘱託を離れるので明日私の所へ来る予定だという。
傍らの母は、黙って側で控える雰囲気に変わる。少しの時間のご挨拶が終わり私がお辞儀をすると母も深々とお辞儀をしてくれた。シャンとしていた時の母と全く同じな立ち居振る舞いが体から発せられている。何時までも何時までも、本当にいつまでも私と同じ空気を吸っていて私を叱って欲しい。有り難うお母さん。


■11月17日 晴れ
午後より本堂の大掃除をする。とても疲れたがお堂が輝くように見えた。毎日過ごす本堂だが昨年と同じ思いを感じる。午前中は婦人部の方々のボランティアのお札折りに6名程来て頂いた。パイナップルとミカンの缶詰をワイワイ言いながら楽しそうに折って頂いて本当にうれしい。

テレビで米軍海兵隊員が負傷している捕虜を射殺したと報じられた。良く聞くと昨日の攻撃でモスクを攻撃して内部に押し入ったら死亡者と負傷者がありそのまま放置して立ち去り、違う部隊が今回の事件を起こしたそうだ。私が中学から高校生の時、南ベトナムのソンミ村や米空母から発信したファントム戦闘機やB52がナパーム弾を見境無くばらまき火だるまになる村、戦車、火炎放射、枯れ葉剤等でしたい放題やりたい放題の米軍の映像を毎日見た。米兵には麻薬が蔓延して士気は落ちアメリカの戦費激増の財政圧迫と、ソンミ事件以来の反戦運動でニクソンは撤退を余儀なくされた。あれから何度米軍は世界中で戦争を売りまくり同じ事を繰り返すのだろうか?戦争は人を狂わしてしまう。狂気と理性が使い分けられる程、人はそんなに器用なのか?

あれから何年経ってかアメリカがベトナムと国交を回復した折り国交回復の条件が「米国がかつて南ベトナムで出費したインフラの費用を支払えば国交を回復する条件とする」との文言を見た折り、私は自分の目を疑った。外交というのは人の屋敷に入ってきて思い通りにならないからと言ってしたい放題して逃げ帰りった相手でも、利益に叶う事で有れば元の家主は頭を下げて、火付け盗賊の下手人と仲直りをすると言う個人の感情では計算できない所に国益が存在するのだろう。

かつて日英同盟でドイツを懲らしめた日本はその後日独の条約を結びお互いに戦争に負けている。問題はその後である。火のない所に煙はたたず、利のない所に人は寄らない。「物の荒廃は人により 人の昇沈は 定めて 道にあり」と弘法大師は仰られた。道とはキット教育であり心根を指すのであろう。「衣食足りて礼節を知る」中国にも言い言葉がある。

■11月16日 晴れ
本日午後より臨済宗の研修会にお邪魔させて頂き有意義な研修をさせて頂いた。いつものメンバーとは違う空気を吸ってトテモ参考にさせて頂いた。講師は日本テンプルヴァンの社長さんであり、もうお一方は立命館大学の教授をされておられる方の講演であった。今後の日本の宗教界への取り巻く環境や沢山の方々の宗教への期待とお考えをご披露頂いた。
お寺にいて一人で思い付く事以外に、外部の方々のご意見を頂く事は違う観点からの提案や問題定義にハタと我に返る事が出来て本当に良かった。再度参加をお願いして帰寺した。


■11月15日 曇り/少し晴れ
午後3時より僧侶全員で持仏堂の大掃除をする。寒くなってからでは大変なので大掃除を始めた。持仏堂は余り広くないので2時間程で済んでしまった。とは言え全ての仏具や位牌を全部だして一年の塵と埃と汚れをきれいに拭き上げた。終わる頃に境内受付の方がお見えになって「どうして同じなのに、違ったようにきれいに見えるのでしょうか??」と独り言を言われた。私も同感でして、どうして違うんだろうかと不思議に思う。
しかしネットは怖い物だ。知り合いのお寺のネット上で非常に有名であり著書もお出し頂いている方が法事をしてそのお寺のhpをご紹介されたら一日に数千件のアクセスがあった。その方のブログは一日平均15000件のアクセルがあるそうだが、何と1/4の方のアクセスがあった事になる。情報は瞬時にして世間中に広まる。凄いの一言であった。


■11月13日 晴れ 穏やかな日
暖かいと言うより体がこの季節に慣れてきたのでしょうか?過ごしやすい毎日が続きます。

昨日お参りに出かけた僧侶が「住職さん、みんなホームページを見て頂いて入るんですね」と私にお昼ご飯時に告げた。「どうしてそれが分るの??」と尋ねると「この間は、こんな事があったでしょとか、色々な事を彼方此方の家で最近尋ねられる。『どうしてそんな事をご存じですか』と尋ねなおすと『住職のhpを見ていますよ』って言っていただけてトテモ嬉しかったです。」と言ってくれた。「そうかそりゃ結構だ」と返事をした。「で、君は私のhpを自坊で見ていますか??」っと尋ねたら「・・・はぁ 時々」と困ったような顔に変わった。

別にhpなんぞ見なくても良いはずです。私の毎日を生活を一番側で見ているのだから帰って読んでも何もならない。私も他のお寺の方のhpは時々拝見している。他人事で笑える事もあるが自分の事だったら大変だなと思わず読み返したり、成る程参考にさせて頂こうと思う事もあります。例えば年末の「鐘餅」。これは結構好評である。写真付き掲示板も背中を押されて始めた。色々とありますが、これからもhpを改良して愛されるhpにしたいです。


■11月10日 晴れ
 穏やかな一日。昨夜の会食はトテモ楽しい一時で気が付いたら11時過ぎ。各自大あわてで自宅への帰路についた。今度は何処かのお家を会場にして持ち寄りパーティーをしようという事となった。この持ち寄りは私も何度か催したが費用もかからずバラエティに富んだ品々が集まる。元請けとなる家は机とイス、テーブルクロス、使い捨ての食器類と飲み物を準備する。参集する人達は思い思いの食材を持ち寄る。只それだけの事ですが一度経験するとこれがなかなか面白いです。何時になるか分らないですが楽しみが一つ増えました。
でによって、睡眠不足となり本日は早速早めに就床と言う事になりました。


■11月9日 快晴
小春日和には少し季節が早いが暖かな一日であった。
昨夜は友人の医者のところへ再度、でかけて薬を貰った。体は元気そうだが彼なりに心配事があるようだ。ひしひしと伝わる。帰路、もうお一方の友人のお寺へ立ち寄り拝借物をお返しに参上した。

今日は会議の多い日であった。11月月例会議を午前9時より開く。防災計画を全員に説明し万が一の折り、手順手筈を書面をもって説明した。又年末大掃除の段取りの詳細及び責任担当の明示をして取り掛かる事となった。計画書の清書と原本を設置して計画通り実行する事を合意して予定より30分程予定オーバーで終了する。その後大林組と面談。

午後より藤田学園の葬儀を執行、14時よりお砂踏みの男性世話人会の反省会を催す。字面から来ると一杯飲んで盛り上がると思われがちだが、渋茶一杯で2時間程の会議を終える。終始、善意と思い入れと発展を望む気持ちで全ての方の忌憚無いご意見で立派な会議が終えられた。本当に私は幸せだ。心強い男性世話人会と笑顔と心配りの女性世話人会に本当に感謝をする。

夕刻は僧侶の会食会に今から出かける所です。宿直は住職補佐の丸山僧正が留守を預かってくれる。早めに帰って早く寝よう。早く寝ると目がよく見える。今朝も眼鏡無しで暗い或る所で新聞が読めた。パソコンを触らず早寝をすると調子が良い事を実感する。備忘録をご拝読いただく諸氏、早寝をお奨めします。では行ってきます。でもワクワク・・・


■11月7日 快晴
 午前中法事等で各お参りをさせて頂いた。午後よりガラス拭きをする。久し振りに輝くガラスはきれいだ。今年のように台風が多い年は何だか汚れがひどいような気がする。ただ3名の僧侶と拭くとあっという間に済んでしまった。と言っても沢山のガラスである。普通のお家では大小有るでしょうが今回掃除をしたのは表側の大きなガラス、約30枚位でしょうかかなり大きなガラスをきれいにした。毎朝汚れたガラスを気にしていて、寒くなったら水も触るのも嫌になるから今日しようと決心して取り掛かった。

 明後日は月例会議。消防計画の原稿を、結局私が、書き上げている。まぁ仕方なか。でも私がする方が理解も徹底も捗る事は間違いない。境内・山中の呼称(火災時の地域名の選定)は特に私でないと出来ないと思う。また訓練の手順、方法、準備、連絡等を考えると先ず私が進めるべきであろう。明日は私がその資料のまとめをする。
それと年末大掃除の細部の検討を諮るべく資料を作る、と言っても昨年の資料の焼き直し程度で済む。あぁもう年末、そして年越しの跡は歳を取る。誰しもため息が出てる。
そう言えば最近の年末年始のシンとした空気の張りつめようが、子供の頃と比べると無いような気がする。年末年始は何処もお店は休みであり何をする事もなく町に出てもシンとしていた。今は24時間常時騒がしくて正月も日常も分け隔てがないような風情を感じるは私だけだろうか?。

 まだ未定ではあるが当寺の「除夜の鐘」が年末にテレビに乗って全国へ流れるかも知れない。放送局から打診があり現地調査をされるそうだ。もし決定になったらこの備忘録をお読みになっている方だけに秘密の情報を流そうかな・・・ ナンテもったいぶって来なかったりして大恥をかくのも嫌だし。以前、市川団十郎が久々にお越しになられるというのでお世話になった方へご連絡したら、昭和天皇のご不例(〔普通ではないこと、の意から〕貴人の病気。不予、御(ご)―」)で前日に急遽中止の憂き目に有った事もあったし。まぁ 決まりましたら、備忘録でご紹介をさせて頂きます。


■11月6日 回復
 昨夜友人が開業した医院へ、余りにも風邪が治らないので、夜出かけていって診て貰った。「今年の風邪は治りにくいんだよ」という彼。風邪の話と近況と友人の事と又風邪の話とクルクル替わる話の内容、キット看護婦さん達はどんな患者かといぶかしく思ったに違いない。帰って早々に風呂に入り就床した。
翌朝はもう布団の中にいるのが嫌になるくらいに体が軽かった。全快ではないのですが布団の中にいる事自体が苦痛となり我慢しきれずに飛び出した。「あら、まだ寝て無くてもいいの?」と家内が聞く。「もう寝ちゃいられないです」と返事をする。しかし今年の風邪は長引いた。これでもアスレチックジムや水泳に通っているのです。体力もそこそこ付けているのに風邪にひっくり返されました。皆様お風邪にはご留意を下さい。


■11月5日 
風邪がなかなか治らない。肺炎を最近2度程患い、その後風邪に罹りやすくなったのは何か因果関係が有るのでしょうか? 今日は月例会議があるのにそんな事も何処かへ行って布団の中で眠りこけていた。と言っても昨夜は9時前には就床し何度と無く同じような夢を見ては「どうかしているな」と寝汗を拭いては「寝なくてはならない」と布団をかぶった。アホみたいな夢をそれも同様に繰り返し見るのだ。覚えてはいない。

備忘録の更新が無くメールや事情を知らない人から携帯へ電話も貰う。安静一番で寝ております。が、もう寝たくない。のどの痛みと咳が出るのと鼻水が止まれば何て事無いのだが。。。。
体は眠いが、気持ちは寝たくない。複雑な思いで備忘録を書いております。今から又休みます。77777のキリ番は誰が落とすのだろう。キット夕方なのだろう。もしキリ番77777を頂かれた人は「私デーっす」ってメールをくれたら有り難いな。色々な方に教えて頂いて今のホームページが有ります。これからもよろしく願います。


■11月1日 風邪治らず
なかなか風邪が治らない。お砂踏みの準備が気になり午後より大凡の準備を終わらせて明日最期の準備に取り掛かる。早い物で今年で18回目を迎える。昭和62年山門落慶の時よりの記念行事が現在まで続いている。有り難い事であり多くのお世話人さんのお手伝いがあって今日を迎える。本当に感謝をしなければならない。
元気が出ないので体も気力も沈みがちであります。・・・・