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名古屋の天気予報
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平成17年12月分

非営利斎場「六波羅蜜会堂」の動画です
 ご覧下さい

■12/29       寒し 
今日は丸山僧正がお休み。私もお詣りに出かけあちこちで話し込んできた。車に帰るとお詣りの時間を過ぎても来て頂けないと言う連絡があり早速電話をする。お寺か依頼者かが勘違いをしているのでしょう、早速お待ちを頂いているお家へお詣りに出かけた。皆さんお待ちのようで、お詫びを言いながら仏壇の前に座る。お詣りが終わると世間話が始まり少し時間を取ってしまった。

午後より再び事務仕事を進める。色々なご進物を頂きその都度、玄関先までうかがいここでも世間話をする。一日中お話ばかりしているが相手様は「今日は住職と話が出来た」と喜んで頂ける、お喋りが好きなので苦にならないが笑顔を見てお話をすると楽しい。
そんな中『住職御朱印帳をお願いします』と持ってこられた方お見えであった。ヒョッとしてと御朱印帳の表を見ると69と書いてあった。あのお詣り大好き先生のお詣りを頂いた。病院の大掃除の中、例年29日にお詣りに来て下さっている。立ち話であったが色々とお詣りのお話を伺った。全くお寺の人よりもズット詳しいお詣りのお話、お詣り40年。大したものだ。

6年前にお寺を退職された優秀な僧侶がお越しになって頂いた。「31歳になりました」と私に告げた。「31歳は私が山門を落成させた年だったな」なんてお話をした。彼は静岡のご出身で今から帰省するという。お土産にとっておきのワインをもらって頂いた。私の大事なワイン「シャトームートン・ロートシルト・ポイヤック1987」を飲んで頂きたくて彼にお渡しした。今度、職場にお帰りになるのは6日という。5日に名古屋で泊まって欲しいというと二つ返事で快諾頂いた。旧知の友人もお誘いして会食を催す積もり。「何時かではないよ、五日だよ」と言うとニッコっと笑って「はい」と応えてくれた。押し迫った師走の風景に消えていく彼、今度再び彼と会える日が楽しみだ。
■12/28       寒し 
今日は朝から境内清掃の方々がお見えになり残りの掃除をされた。半日出ますと言って結局一日になったようでした。私も残りの庭木の剪定をこの機会に済まそうと機械を取り出して完了をさせた。剪定をして落ち葉まで片付けるのは体力も時間もかかるが剪定のみであったら仕事は半分に減るのでとてもスピードと作業効率も上がるというもの。短時間に完了をさせる。

午後よりお詣りや年末の準備を済ませる。掲示板が荒らされていたので少々対策を講じてみた。奏功するであろうか?
■12/27       大晦日の準備
少し日記を休んでしまった。久し振りに名古屋市中へ出かけてきたがついこの間のクリスマスの雰囲気から「迎春」の文字が電信柱等に並んでいた。お正月を隣国、中国では旧正月で祝うと言う、が日本は旧暦では祝わない。以前クリスマスシーズンに香港と台湾の飛行機にのった事があった。機中にはクリスマス等の言葉は一切なく「季節を祝う」と直訳すれば何となく理解できるような言い回しで季節感を表していた。日本ではこの季節は何処でも彼処でもクリスマスソングが耳について離れない程に延々と流れる。クリスマスが終わると翌朝から琴の音色で新春を迎える雰囲気に衣替えする。

クリスマスの頃に中国へ行った事はないがどの様な過ごし方をするのだろうか?少し興味がある。インドの無抵抗主義者マハトマ・ガンジーは著作の中で「私にはクリスマスのお祭り騒ぎが以前からどうしても受け入れられない。それはイエスの生涯や教えに全くそぐわないように思える」と述べられておられる。

まぁ堅い事は別にしてクリスマスも終わりお正月を迎える気分となってきた。境内清掃の方々も明日もう半日出て今年の仕事を終えて頂く。私も先日の大雪の交通大渋滞で仕事にならなかった事柄を全て終えた。

「もう幾つ寝るとお正月♪」子供の頃は良かったな〜。
■12/22 曇/雪       月例会議と大雪
今年の最後の月例鍵を催す。除夜の鐘の会場設営について昨年の議事録等を読み上げて準備の万端を期す。よって師走の不足品を求めて名古屋へ走る。

これが最悪の結果となる。チラチラの雪が車の視界をさえぎるほどに大降りとなってきた。高速道路で急いで帰ろうとするもとんでもない所で、閉鎖のために降ろされて数珠つなぎで延々と全く目的地と違う道路を走らされる事を余儀なくさせられた。

この期に及んでは帰寺をめざし湾岸道路の状況を携帯で調べると規制中であり通行可であった。大渋滞の対向車線を横目に、急ぎ走りこんでインターチェンジにたどり着いた。するとその光景は赤信号の前に待つ数台の車。目前で通行不可となり大渋滞の最後尾に回り込む憂き目となる。

やっとバイパスにたどり着いても延々たる車の大渋滞。途中からスイスイと走り出したが対抗車線は気が遠くなるくらいの大渋滞であった。それもその筈で、東名・名神・湾岸・名古屋高速全てが全線通行止め。唯一大阪方面に行くには国道23号線、別名名四国道(名古屋〜四日市、略して名四【めいよん】)に車が雪崩れ込んで来たのであろう・・・帰寺したのは午後3時ごろと言う何もしないで一日を終えた。雪道で、事故が無かっただけありがたい。

今私は雪かきから帰って来たばかりだ。お寺の重機を利用して車道を作ってきた。かなりの雪である。人力でやっていたらいつまで経っても終わらないが、さすが機械、きれいに終えられた。明朝も早起きして境内ばかりか歩道も重機で歩き易くして差し上げるつもり。

降る雪には名前が無いが、積もった雪には名前が付く。そんな事は言っておられない程の大雪。何事もなければ良いが・・・おやすみなさい。
■12/21       ななつき参りの日
ななつき参りの日。僧侶7名にて一座の法会を開く。今年最後の法会を無事にお勤めして来年もよろしくとご挨拶をさせて頂いた。

さて今夜はお寺の忘年会。昨年も今頃に開いた。寒さ厳しき折柄、今日お会いした面々と楽しく過ごす忘年会。メンバーはいつも変わらない。どんな宴会になるか楽しみだ。

毎年開くと前年の言動がいつも話題となる。痩せるとか飲み過ぎないとか色々な話が出る。今年はどのように尻尾がつながって展開はどのようになるか楽しみだ。では行ってきます。
■12/19       大雪来襲
大雪が東海地方に降り続いた。新聞を見ると60年ぶりの大雪という。昨日、高野山の帰り時、近くのビジネスホテルに泊まろうかと一瞬脳裏をかすめたが『もし雪で通行止めになったら帰寺出来なくなるかも』で無理して帰ったが正解であった。三重県境に差し掛かった時からの本格的な吹雪はそれは凄い物であり本日の報道通りとなった。

先日転んだユンボが一昨日に復帰したので広い駐車場や山頂への道路の雪かきに威力を示してくれた。この重機の先端は物を挟むようになっていている。長くて太い丸太を挟んで路面に押しつけて雪を前方へ押し出して除雪する。人力ではとてもこんな調子には行かない。

お詣りも雪の影響が出て終日混乱した。明日は今日よりもモット冷えるという。雪は降らないらしい。冷えても零下7度という高野山程ではない。本山にお詣りしてこの地方の温暖な事を改めて感謝する。
■12/18        慌ただしい一日
数件の法事と葬儀を済ませ雪の舞う高野山へ参詣させていただいた。お昼2時ごろにお寺を出立した。湾岸道を通ると四日市から久居まで通行止めで急遽川越インターで出て23号線を走る。亀山方面を目指すも鈴鹿の料金所へ行ってしまった。近くのGSで給油して東名阪の事情を尋ねると指をさして「大丈夫見たいダネ、車がICに入っていくので・・」ラッキーであった。

名阪、西名阪ととても快適であったが高野山の道路は凍結と雪とスリップの恐怖に苛まされて上り詰めた。到着時刻は17時頃、気温は零下5度ほどを大門付近の寒暖計は示していた。私がめざす奥の院燈籠堂には、土産物屋さんの曰く、とても行けない、で四輪駆動車に乗せていただいて程なく到着。

下車した奥の院にはどなたもいなかった。杉木立の巨木の間、真っ暗な空を仰ぐと際限なく雪は降り続いていた。水掛地蔵の掛け水を汲む柄杓は一本も無かった。燈籠堂の前にも何方もいなかった。一人お勤めをさせて頂いた。お経を上げながら「何の為に?」とか「それがどうした?」と自問を繰り返し凍てつく空気は体を取り巻く。「何のために・・・」自問が続く・・。私は今、夢の中で基本的な約束を、誰とは解らないが、約束をしてしまった。高野山の厳冬でのお参りは昨年12月から行っていて思い付きで今年から始めたのでは無い。私は夢の中で、多分自分自身で神仏と約束をしたんだろうと思う。

流石に高野山は冷凍庫であった。慎重に車を走らせて高野山を後にしたのは午後7時すぎ。ヤット雪の恐怖から開放されたのも一時、東名阪道路に乗ったとたん、猛烈な雪となり、最近開通した伊勢湾岸道路が雪のため通行止。遠回りして帰寺したは零時過ぎであった。
大門前の寒暖計 12/18 高野山
■12/17       明日は大雪という
明日は大雪という。ここ濃尾平野にも雪が積もるという。とても寒い。お部屋には欄の鉢植えが一つ頂いた。とても立派な欄の花。寒々とした部屋もぱっと明るくなった。

雪と言えば以前こんな暖かい思い出がある。確か昭和56年1月高野山の住職様がお亡くなりになり三重県の住職と共に葬儀に参列した帰りの時の話し。雪はボタボタと降り葬儀の時はまるで時代劇のようであった。鎌倉時代創建の玄関先には、座棺(丸い桶の棺)を担いで多くの人達が三回円形に回って、雪の降りしきる墓地へ向かい葬儀は終了した。「土の中は寒いんだろうな」なんて思って帰路についた。チェーンをつけた事もなく土産物屋さんにはめてもらって銀世界の高野山を後にした。所が暫くと言ってもホンの2〜3分も走らないで雪は全く消えてしまった。

さすが有料道路は雪かきが完了していて今し方装着したチェーンはスグに不要となった。煩いし音もするのでスグに外しにかかった。ジャッキで持ち上げ外すつもりが車の車軸の方にチェーンが落ち込み二進も三進もいかなくなってしまった。少し車軸を廻せばと動かしたら余計に絡み始めた。氷点下の高野山、難渋している私のそばを冷たい風を切って車が通りすぎる。そうこうしている時、一台の車が勢いよくバックしてきて事情を聞いてくれた。私はここでは連絡が取れないので何処かで土産物屋さんに電話をして手伝って欲しい事を伝えて欲しいとお願いをした。そうしたら「任して下さい」っと関西訛りで返事をしてご自身のトランクを開けて排気で膨らむジャッキを取り出して私の車の排気ガスマフラーにホースをつけて車をふかしなさいと指示をした。車をふかすとグングン車体は持ち上がりタイヤが丸見えになり簡単にチェーンは外れた。排気ジャッキのホースを外すとすーーっと車は何事も無かったように元の車に戻っていた。出した工具を片づけてお礼を言おうとすると、その車は何事来なかったように有料道路を下っていってしまった。神戸ナンバーの外車であった事だけは覚えている。

今度あったらお礼を申し上げようと思っている、が、誰とも分らない。誰かが言っておられた。『今度困っておられた人が居たら、御親切にして頂いた方への恩返しのつもりで、親切にして上げてください』。

話しは長くなってしまうが福沢諭吉は『世の中で一番偉い事は、人のために奉仕し、決して恩にきせない事です』。アホだ、でくの坊だと言われても恩着せがましい事を言動や行いをしないように私は心がけている。しかし世の中、これを徳として実行していた人が現におられる。この人達には常に人が黙ってついてきている。

明日、法事や葬儀が終わったら高野山にお詣りに日帰りで行くつもりでいる。
■12/16       大変寒い
午前中、寺務を執行する。お昼頃一部の女性世話人さん方がお越しになられおにぎりを持って遊びに来られた。お寺にタラバガニ7Kを奉納してくれた頂き物があったので皆さんと頂く。美味しい美味しいと時ならぬ臨時忘年会が厨房で為された。

ロシア語で何と書いてあるのか分らないがタラバガニには間違いはない。私は午後よりも予定があったので手術用のゴム手袋を装着して頂いた。口に運ぶとゴムの臭いがするが味わいはタラバガニの味わいであった。

僧侶方も思わぬ昼食会に「美味しい」と感想を述べておられた。今度の旅行は何処が良いのかと言う話しになった。沖縄本島に行きたい希望と湯布院に行きたいという希望が出た。遠くの方ではニュージーランドかオーストラリアの声も聞こえた。ささっと参加者の人数を数えると大体1名程である。

また一つ仕事が増えたが皆さんがお寺を通じて親睦を深めて頂ける事がとても嬉しい。さて何処へ遊びに行こうか??どうも沖縄らしい。
■12/14       寒い
午後より寺務の残務を処理する。婦人会の幹事さんがお見えになった。除夜の鐘の時のお接待の打ち合わせをさせて頂いた。近々に打ち合わせ会をしようと言う事になりました。私が「明日くらいにタラバガニを7kたのんだので持ち寄り会食会をしよう」とお誘いしたら「大賛成です。蟹大好き」と言う事で明日か明後日くらいに開かれる予定だ。話が今年の夏の知床の旅行の話になり「タラバガニは美味しかった」のお話になった。また行きたいと言う話。

夕刻寺務の処理をして一日を終える。昨日の事を思い出すとぞっとする。女性世話人会の幹事さんのご主人が昨日の事故に一番そばにおられた方だ。どうも奥さんにお話していないみたいで奥さんも驚いておられて。「住職さん、主人に聞いていいのでしょうか?」と尋ねられた。少し考えて「知らぬ顔でいましょう。ただお寺の仕事から帰られて変わった事があったら私に知らせてください」と伝えてお別れした。これからも仕事を頑張って欲しいです。

長年当寺の相談や工事に誠心誠意勤めていただいた松井建設株名古屋支店長が今月を以ってご退職される。支店長さんは私が31歳の頃からのご厚誼を頂き山門建設や鐘楼堂、本堂屋根葺、斎場等々色々な工事に携わっていただいた。現場監督からのお付き合いであり最後は支店長でご退職。私を可愛がって頂いた。語り草も一杯ある。席を改めてご慰労の一席を設けさせていただきたい。ありがとうございました。
■12/13       この冬一番の寒さと・・・間一髪
 寒い日であった。枕経に出る準備をしていると「住職大変です」と電話が鳴る。最近大変な電話に少し慣れてきたような気がする。電話を聞くとそれは大変な事であった。それは木材粉砕器(お寺では通称でガリガリ君)を運転中に横転してそれを引き起すためにユンボを移動させて運転していたらそのユンボも横転したとの連絡を受けた。真っ先に浮かんだのが運転者のケガ等の事であった。

幸いに3tのユンボにも1tの粉砕器にも挟まれもせず下敷きにもならずに「少し足が痛い」程度でおられた。当寺の清掃担当の主任さんである。本当にケガが無くて良かった。早速重機販売店に連絡をして作業にかかった。大型のクレーンが到着。重機販売店の職員も来て一様にケガが無くて良かったと言って頂いた。それよりも顔が曇っていて一様に言いにくい事がありそうであった。およその想像はついていた。

「修理費はいくらでしょうか」と私が尋ねると「ユンボは工場で一度見てみないと分らないが何とかなると思う。木材粉砕器の方はエンジンを取り替えなくてはならない。完全にオーバーヒートしてしまっている。」と言い出した。声もない。幸いにも死傷者がないだけ幸運である事を考えれば何も不足はない。仏様に感謝を申し上げなくてはならない。本当に有り難かった。

良かれと思って、職員の皆さんは仕事をして下さった。この様な事故が大事故にならぬように全員に危険行為は住職が実行若しくは立ち会い、許可と指示と注意を聞いてこれから始めて頂くように指示をした。午後より再び全員で庭の手入れや植木の剪定をして一日を終える。新しい剪定機、草刈り機のような長さの剪定機は二日かかった刈り込みを4時間ほどで終える優れ物。寒い中、一日バタバタした。
■12/12       とても寒い
 不思議に今年は元気で未だ風邪を引いていません。ここ数年、11月頃より風邪を引いてハッキリしないのですが今年は元気が良いです。
午前中は年末年始の寺務を片付け、午後は大学病院にてお詣りをする。その足で名古屋市内の知己のお寺を回り暮れのご挨拶をする。途中数件のお約束のご面会を済ませて夕刻帰寺する。

夕方、お見合いのお手伝いをして一日を終わる。何でもご縁であり楽しみでもある。明日は雪がちらつくという。暖かくして早くに休もう。お休みなさい。
■12/11        慌ただしい一日
今日が今月では一番法事の多い日でした。朝からお昼過ぎまで私も含めお寺の僧侶はお詣りをさせて頂いた。3件目の法事の時、会食を進められた。30分ほど時間があったのでお席に着かせて頂いた。
私の隣の方が昔からお寺の事を知っている、私の中学の恩師の先生を存じ上げていると言う。お話があいとても楽しい雰囲気に時間を忘れて歓談をしていた。その方は現在先生で、バレーボールの選手を長年していて膝を痛めて「運動のし過ぎはダメです」とご感想を述べられた。

先生は男前で背が高く私と年格好は余り変らないのに若く見える。娘さんがいるので「お父さん格好いいよね」というと「ぜんぜーん」と言う。「優しそうに見えるけどね」と言うと子供さん方は現代っ子らしくただ笑っているだけであった。

「学校は今大変ですね」と私が尋ねると「校長始め大変です」と仰られた。校長先生ね。確か当寺の檀家さんにも校長先生おられたなと顔を思い浮かべていたらお昼からのお参りの方は校長先生であった。突然私は「今何時??」っと慌てふためいて「いかん、いかん」で皆さんにお礼を言ってお寺を飛び出した。30分ほどの会食が1時間も話し込んでいた。時を忘れていたが先生が隣に座られた時に、感じるべきであった。

当の先生のお家に着いたのは30分の遅れ。「急ぎませんの気をつけて来て下さいね」と心遣いのお電話のご返事を頂く。またそこで話し込んでいてお寺へ帰ってきた。私は話し好きなんですね。
■12/9       忙しい一日
 朝、持仏堂でお参りをしていた。いつも本堂をお参りしてから持仏(じぶつ)をお参りしている。ローソクを点けてお参りをしていると何処となく電話の音がする。懐に入れた電話であった。お経を止めて電話に出るとあるお寺の住職からの電話でご尊父様が亡くなり葬儀の依頼電話であった。

 先日お参りしたばかりの親しくしているお寺のお父様であった。当寺以外のお寺様の手配も頼まれたので色々と電話をして早速お参りに出かけた。事前に電話したお寺様もお参りに参上しておられ一緒にお参りをして失礼をする。

 浜松にお昼に所用がありまた今日はお寺の大掃除でもあった。ギリギリまで大掃除の指示をして早速車で浜名湖まで出かけた。お昼3時半ごろにお寺にとんぼ返りをして準備を始め大渋滞の国道をお通夜に向かう。お通夜が終わり会食に誘われ行くつもりであったが何せ師走の金曜日、丁重にお断りしてタクシーに乗る。先日のKさんが「住職さん、今年って忘年会していただけますか?今年マダナニも無いんです」っと寂しそうに私に頼み込んだ。「わかった、じゃ今度段取りするから安心して」と言ってわかれる。皆楽しそうにやっていて結構寂しいんだなと思う。

今日はつかれた。
■12/8       母を見舞う
夕方、母を見舞う。「「お婆さん、こんにちは」ニッコリ笑ってお婆さんの顔色を眺める。元気そうな顔色で私の顔を眺める。「お婆さん、暖かい物を飲みに行こうよ」と車椅子の母をエレベーターに乗せてロビーに下る。家内に暖かいミルクを頼んでお話をしていると「トイレに行きたい」と言う。母は何事も心配性で直にトイレと言う。「ハイハイ」と言いながら身障者の方のトイレを借りて母を連れ込む。一人では立てない。私が何とかして持ちあげて洋式トイレの便座へ座らせる。
そして母に「出たかい?」っと聞くと「まだ」と言う。服は着たままである。以前に何度もトイレへ連れて行っても用を足さない。今はオムツもしている。わたは以前より一計を講じて何時ものこのパターンになると母を便座に座らせて暫らくすると水を流す。終わった気分を与えると「でた」と言う。

そうこうしてトイレを出ると家内がミルクを持ってニコニコして待っている。砂糖を入れて温度加減も丁度よいくらいのミルクを、私がショボショボと飲ませる。「美味しい 美味しい」と飲んでくれた。面白い話や子供の頃の話をすると「あはは」と笑ってくれる。そばにいる家内も笑っている。「お婆さんまた来るからネ」「・・・家、かえる・・・」と言った。家内と今度、年末までにお寺へ連れて泊まろうと話して帰寺する。

夕刻友人夫妻と若夫婦がお参りに来られた。「以前ここでお参りした夜に産気づいたので・・今晩あたりに・・・」でお参りに来られた。上がってもらって色々と世間話をする。沖縄のサーターユと言うサトウキビと黒糖で作った飲み物をお出しすると美味しい美味しいと言っていただいた。今度の除夜の鐘の時にお出ししようと予定している品だが喜んで頂いたので自信がつく。

住職代理、補佐両名君がお休みされたので朝より一人でお参りに出かける。彼方此方で話し込んでいたのでお参り先の玄関先で「お参り待っていますよ」とお寺から催促の電話も入った。日ごろ時間に留意しろと言っている住職が遅れてしまった。年末に配る年越しそばをお参の時に配っている。車から出ればジングルベルの音が四方八方から聞こえる今日この頃でした。
■12/7       とんでもない事故 その後
午前中所用で外出をした。午後より本堂縁の下の土台の大工仕事を3人でこなした。古い本堂ゆえユサユサと畳みが歩くと沈む箇所がある。何となく以前から気になっていて修理を考えていた。ネットオークションで4tの油圧ジャッキを三台購入して今日の日を迎えた。

16枚程、畳をめくり上げ縁の下の上に張り巡らされた、縁板をめくる。畳みも重いが縁板を外すのも一苦労であった。釘は古いので頭が飛んだり抜けなかったリ折れたりで難儀をした。板が凡そ取り外されると埃だらけの縁の下が見えてきた。礎石とも呼べないような石の上のツカは、転びそうになったりズレたりしていた。ジャッキアップしてツカと礎石をキチット載せ直したり、礎石となる石を新たに入れてレベルを測って材木で補強した。上げ過ぎれば膨れ上がり、下げすぎればフカフカのまま。ミリ単位の木材調整。切れない鋸で山門建設時の樹齢2600年の台檜を切り落とすと20年前の匂いがしてきた。凡そ4時間ほどで仕事ガ完了した。

仕事を終えて畳を入れなおすとユサユサしていた畳はレベルが整い凡そ強度も出て一様の畳みのレベルとなった。若干レベルが高い所もあるが近いうちに再度調整を行うつもりだ。

「今日は何ですか?」とお参りにこられる方が聞く。「ハイ今日は宮大工です」「ええぇ?、」何でも考えてやれば出来るもの。一息入れていると昨日の大事故の会社の方がお越しになられた。

「昨夜3時半ごろの事で、大変な事をしてすいませんでした」とお詫びをされた。「事故の程度を考えると、昼間の通行人の多い時間帯、学校が二つもあり通学路となっている事を考え合わせ、怪我人や万が一の事が無かっただけ幸運でした」と少しお話をしてお帰りになられた。幸いであった。落下させた鋼材は4tもあり緩やかなカーブで不思議な話だが、荷崩れを起したと説明があった。朝3時30分ごろに崩れを起こし気がついたのが岐阜県内で荷降ろしをするため到着して初めて気がついたという。

お寺の中でも「死傷者が出たら朝からヘリコプターがお寺の上空を回っていただろう」と皆一様に心配をしてくれた。復旧は今日から取り掛かり元の通りにしていただけるそうだ。年末の気ぜわしい時に気の毒な話であった。
■12/6       とんでもない事故
朝8時、葬儀場の関係者から私の携帯に電話がなった。「住職ご存知かもしれませんが一号線の看板が大破してますがご存知でしょうか?」っと一報が入った。「どうも昨夜、トラックが飛び込んで看板を壊したみたいです」

その言葉を聞いて早速現場に出かけた。見るも無残とはあの事であった。石張りの本体は相当の強度で粉砕され鉄骨がむき出しになっていた。そしてその破砕で飛び散ったコンクリート片が飛び散り総代さんの旧家のガラスや壁を突き破り一方向に散逸していた。そこには不思議なものが散逸していた。とても大人が数人かかっても持ち上げる事の出来ない鋼材、直径2m程、縦30センチの鋼材がグルグル巻きにされた製品が何と4巻きも放置されていた(↓写真参照)。コレには驚いた。
一体何があったのだろうか。トラックが突っ込んできたら正面から粉砕しているのに左端から中央に向かって粉砕され亀裂が縦横に走っている。その現場で観察していると知り合いのゼネコン現場監督大○組の監督が「コレは豊橋方面からお寺へ向かって左折して鋼材ガ荷崩れしてぶつかったかも知れない」と私に話しかけた。道路管理の国土建設省の人は「今、状況を調べている」と言われた。警察は既に現場検証をして帰ったらしい。一体ここにいるのはどんな関係の人かと思えば全て善意の人ばかりだ。そこへ「住職さん、今朝4時ごろ大きな音がしたに」っと檀家さんが声をかける。

現場を見ると大○組の監督さんが推察が一番適切のような気がした。そうこうしている内にこの看板を施行した勝○建設の課長が走って来た。朝から一日の出鼻をくじかれた調子であった。

午前9時より月例会議を始め1時間ほど経つと色々なところから電話が入り始めた。現場に残された鋼材の伝票から色々と判明した。運転手は知らずに走っていたと言う。ハンカチや手帳なら知らずに走っていたと言っても通るかも知れないが数百キロに及ぶ鋼材4m巻きを落として気が付かない筈はないだろうがが院内の皆の感想であった。

夕方からバタバタとした事があり落ちついてその対応が未だに済んでいない。明日お昼過ぎにお詫びに来ると言う。何だか面倒な話だ、この師走に。

夕方友人宅でインフルエンザの予防接種を受けて帰寺する。もう寝ます。

毎回お付き合いあるこの備忘録読者の方、本と私のお寺は色々な事が頼みのしないのに向こうからやってきます。とても疲れます。

■12/5        寒い一日
今日は住職補佐がお休みだった。忙しい一日で代理と二人で法事やお参りであちこちを伺わせて頂いた。

あるお家では「まあ住職、ビールくらい飲んでくれ」と言われたが「まだ、午後から所用があるのです」と返事をすると少し不機嫌になって「そうか、んじゃオレ焼酎のお湯割にしてくれ」っと細君に一言声をかけておられた。気の毒に誰も酒を飲まない。私も用が無ければ一緒に飲んであげられたものを・・・可愛そうであった。

夕方葬儀の方がお礼に見えて色々なお話をされた。建築関係の方で今話題の耐震構造とか建築の強度や構造珪酸のお話をされた。私も興味深くお話を伺い日本の伝統であった「物作り」の信頼性が事欠いたこの時勢を改めて考えさせられた。

この国の良さと言うか、国民性が土台からヒビが入り始め永年培われてきた信用とか伝統が競争社会の中で「廉価」と言う大ハンマーで相当に打ちのめされて、いまヘトヘトにこの国がなっている現状だろうと思う。自由競争も結構だろうし、規制緩和も結構だ。今まで一部の人しか手に入らなかった物や情報が洪水のように際限なく流れ出し、受益者は正に恩恵を享受している。よい物を安く提供は結構だけど生産者はリスクを負って物作りに励み、善悪を問われるギリギリまで追い詰められ、ある者は麻薬のような事に手を染め、ある人は行き詰まり債務を抱える。

麻薬は依存を高め早晩病に伏し、行き詰まったものはハイエナの様な金融屋によって商品の整理にかかる。整理と言うとかっこいいが足元を見ての仕入れと、投売りの格好の標的となり果てる。弱いものはドンドンと負けて行き、お金のある者はドンドンと吸い上げられ、依存症となった物は廃人と化し、最後に残った者だけが、只お金を持った者だけとなってしまう。

砂漠のような国となった時に、物作りの原点とか「のれん分け」、伝統技術が果たして生き残こっていられるだろうか? しかし眼を転じて他国民に目を向けるといささか事情が違う。 ヨーロッパに行った事は無いが完全に破壊されつくされた街並みを、石を拾い集めて寸分違わす忠実に元在った街を復元し、頑なに「マイスター」の精神を受け継ぐ風土。よくヨーロッパ流と言う言葉を、西欧人は使うが彼らには伝統とか自国の誇りとかを奥底に持っている。

現在の金融や貿易、規制の緩和(外圧)は一体何処からの要求であり、規制緩和の標的となっているのは紛れもない日本である。いま、大切なのは日本人としての本来ある伝統とか誇りを取り戻すというより、再度自覚させる教育が大切に思われる。室町時代末期のスペインのバスク人宣教師フランシスコ・ザビエルは「ベネチア以東、勇敢で名誉心に長け、議論が好きで清潔な民族は見た事がない」と本国に書状を送っておられた。彼が長門の国でキリストの教えを説いておった折ある日本の農民が彼に驚く質問をした「そんなに神が慈悲深いのであれば何故モット私達に早く来て教えを説いてくれなかった」と尋ねたそうだ。彼は大学で学んだ修辞法、平たく言えば言い包めの学問でその場を凌いだそうだが、聡明で議論が好きで名誉心にとんだ日本人をもう一度想像したい。同時期に鉄砲も日本に伝来した。伝来後僅か数十年で何万丁に増産されたが、同じ事は隣の国では江戸末期だったそうだ。信長も産業育成には創造的政策を為した。「天下一」と言う称号を与えて技術を向上させ民生度を上げた。1500万人の人口は信長の治世で3000万に増加したそうだ。

世の中、住み易く(治安向上)なると人口が増え産業が栄えると文化も栄える。今の日本は人口が減り(住み難い)産業が著しい二極化となり当然文化が偏り、事の善悪の判断が社会構造の中で埋もれざるを得なくなり偽者が横行して社会の問題化する。思えば今の日本が透けて見えるような気がする。

何だか、今日の備忘録は変ですね。
■12/3 曇→雨        羨ましい話し
私の大切な友人のお話。彼をKさんと呼びましょう。Kさんはとても良いお人柄で私も大変期待をさせて頂いてるしまた良くお寺にも尽くして頂いている。彼との出会いは彼のお父さんに大変に私がお世話になり、御尊父様も大変彼に期待をしていたのである。

私は父を亡くして頼る寺院もある訳でもなく他のお寺の縁で顔見知りとなっていたKさんのお父さんの関連のお寺で初めて彼と知り合った。「彼ならいける」が私の第一印象であった。彼は20歳前後私は27〜8歳頃の頃であった。何時高野山から帰るか楽しみにしていたのだが大学院までご進学されたので帰ってこられたのは昭和60年頃だったような記憶だ。

もう一人私が若かった頃からの知人で色々とお世話になった方がいる。彼とは高野山の宿坊の風呂の中で初めて知り合った方であり出身を聞くと愛知県であった。Kさんとも同級生であった事があとから分った。
「僕も愛知県だからこれから宜しく頼みます」と言うと彼は「お父さんがお亡くなりなられ大変ですね」と父の死亡を知っていた。

彼ら二人に高徳院の行事に凄い底力になって頂いたのは平成元年の頃からであり今でもお付き合いがあり何を始めるにも彼ら二人と色々と相談をして始めているのは今でも変らない。3人で春の宵に会食をして酔いが回らないと言って名古屋の広い通りを全力で走ったり、身の上の話しを初めてお互いが涙したり、病気になっても回りは知らぬ顔をしても親身になったりで今日まで来た。

そのKさんがこの間、弟のバス旅行の中で私のソバに来てポツリポツリと色々な事を話しかけてきた。「うちの親父が最近変な事を言うのですよ、住職さん」「またあの住職が何を言っているの?」 「この間、オヤジの頭の散髪をしていたら『今度生まれ変わってきたら、Kや、ワシの嫁さんになってくれな』っと言うんですよ」 「へぇ、そんな事いうんかい」と彼に返事をした。暫く無言が続いた。

「Kさん、そんな事言って貰って嬉しかったね。お父さん貴方に心から感謝しているんだよ」 「はい、嬉しかったです。」と言って今度は悪戯っぽい顔して「でも住職さん、あのオヤジの嫁さんになれますか?」っと尋ねたので「う・・・・ん それもチト考えモンだね」と笑顔で返事をした。

時々、親の恩だの感謝だのと言うけど、親が子に「今度生まれ変わったらワシの嫁さんになってくれ」とは素直で一本気なお人柄を改めて思い直した。あのオヤジさん、私が若かった頃に文句も不足も何も言わずにあの濁声でお手伝い頂いた住職、そしてその息子さんと、同級生のHくん。今考えると感謝も仕切れないけど、良い友人に恵まれた自分を感謝しなくてならない。私も自分の子供に「今度生まれ変わったら息子よ、私の嫁さんにくれよな、頼むよ」と言えるような親子関係が出来たら、この世に生まれこれほどの喜びはないし大変幸せだ。

付け足しになってしまったがもうお一方、若い頃に十分な事も出来ないでいる私に誠心誠意一生懸命お寺の為に働いて頂いた方がいた。今は茨城におられるが、今お会いしても昔のままのとても楽しい人が居る。本当に辛い時に不足も不自由も文句も何も言わないでコツコツと私のそばで働いて頂いた、そんな人達に支えられて今日まで来た事に、お詫びと感謝を思う夕刻である。
■12/3        忙しい一日
朝、朝勤行から帰ってきて机に向っていた。七時前だっただろうか「ゴメン!和尚さんいる?オレだ! 師崎(もろざき)だ!」っと大声がした。モロザキ??あの男?っと察しが付いた。知人の漁師さんである。当寺は海からかなり遠い。師崎と言えば知多半島の先端、伊勢湾と三河湾を分けるその先端の場所を師崎(モロザキ)と呼ぶ、そこから時々訪ねてきては色々な魚介類を持ってきてくれる。

「あぁ〜、和尚に会えた。」の声で始る朝の挨拶。何時も何かと色々な海産物を持ってきてくれる。「今日は赤ナマコを持ってきた、未だ市場には出ていないぞ。一番を持ってきたで喰ってくれ」と差し出した中を見ると生きてグニャグニャしている大きなアワビやサザエが入っている。「あんた、この売り物を持ってきてどうする」「なぁに、喰ってくれ」と言う。

この漁師は大した漁師で素潜りでアワビやサザエ、色々な物を取ってくる。先日も月末お寺を空けた留守にアワビやサザエをたくさん持ってきてくれて例の電話も入れていないのにまた持ってきてくれた。「風邪を引かぬように海に潜れよ」っと言うと「オレはな、風邪を引いたら海に潜るんだよ。そしたら、一発で風邪なんか治る」「そうか、インフルエンザや何とかとは関係ないな」と聞くと「そうだ、そうだ」と返事をくれた。今年半ばに息子を亡くしている。今日、朝のお勤めでお詣りをして貰うつもりだったと言う。

「もう一度お詣りするから上がってくれ」というと嬉しそうに上がってきた。「いつものお婆さんは?」と聞くと後から姿を現して紙に書いた戒名を私に手渡した。お勤めの後、世間話をして帰られた。

「風邪を引いたら海に潜るんだよ。」っか。一つ真似でもしようかと思ったけどお寺の廊下に出た瞬間「こりゃ、海には潜れないな」と思った。廊下は雑巾で拭かれた木と水の臭いがした。遅い朝食を取って一日を始める。

檀家にして欲しいと来山された方がお見えであった。葬儀屋さんに希望を述べて葬儀をお願いしたら「初七日までのお坊さんを紹介された」と感想を述べられ「生前中から高徳院でお世話になるつもりでいたのに」とポツリポツリとお話を始められ、私が六波羅蜜会堂を始めた気分に戻りゆっくりとお話をさせて貰った。
■12/2        
とうとう師走の声を聞いた。寒いし気ぜわしい。大掃除も大分進んだみたいであちこちがピカピカになってきた。ただ心配しているのが瓦の大掃除だ。
当寺では毎年屋根の大掃除と瓦の補修というか検査をして貰っている。天気の良い日に屋根は直しましょうとある米屋さんの社長さんが仰っておられた。雨が降ってきてからでは遅いと言う事で毎年私も実行している。阪神大震災の余波で当寺の本堂も修復の憂き目に遭い、全面改修の原因を探れば屋根のホッタラカシであった。
屋根の上は気持ちはいいが、怖い所でもある。本当に怖い。だから上らずに落ち葉も何もかも溜まり放題。これが銅板や瓦や樋、瓦の谷や漆喰を浸潤して木材部まで腐食させる。毎年のお金を惜しむと大きなお金となってしまう。

でその瓦の大掃除が来ると大変なのは瓦から落ちる大量の落ち葉。これが綺麗にした場所に落ちる。毎年考えて大掃除をしているのだが・・・瓦屋さんが何時来るか?電話して来るという。今年は12月初めに来てくれと頼んではあるが・・・どうなる事やら・・・頼むから突然来ないで欲しい。

この瓦屋さんは掃除をする瓦屋さんではない。山門工事の頃からのご縁でお越し頂いている。未だにご厚誼を得ている岐阜の平田瓦店。文化財等も修復するその世界では有名な瓦屋さん。掃除に毎年来て頂いて恐縮している。「和尚さん、毎年瓦の掃除、これが一番だよ」と昨年も言っておられた。今年は何と仰るんだろう。